人質姫は皇帝の溺愛から逃れたいっ!

はりか

出会い

第1話 人質引き渡しの儀

 南の雄、カリスパリア帝国の首都・エオスティア。


 恩寵という名前を持つこの首都は、三方に翠玉エメラルドを秘め隠しているかのような、緑と青の混ざった色の、透き通った海に囲まれている。


 道は網の目状に張り巡らされ、白い戦勝記念碑や灰色の修道院、黄金の聖堂、薄茶の大きな屋敷が立ち並ぶ。

 特に港は青や赤、緑、黄などの旗を掲げる様々な船が行き交い、荷が積み下ろしされていて、これまた極彩色の服を着た商人たちが集まっていた。


 だが、さまざまな色彩が氾濫して、ナジェダには耐え難かった。


 ナジェダ・レナッタは「人質」として暮らしてきた人生だった。


 北はアシュタリア連邦、南はカリスパリア帝国に挟まれた、小国がひしめく大陸中部のレナ公国に公女として生まれた彼女は、あちこちに人質として送られてきた。


 最初は隣国、リーシュア共和国に。

 次はアシュタリア連邦を構成する有力国家の一つ、アルディス王国に。

 また戻って、今度はカリスパリアへ行けと、命が降った。


 リーシュアでは隣国だったため厚遇されたが、次期当主から影で虐待された。

 アルディスでは地下の牢屋に鎖に繋がれて閉じ込められたこともある。


 誰と親しくしたこともないから、恋愛なども知らない。いつ命を奪われるかわからず、食欲というものも感じず、睡眠もあまりとれない。


 どうして自分ばかりが人質として送られるのか、最初は疑問に思っていた。

 ほかの姉妹は贅沢な暮らしをし、結婚について考える余裕があるのに。


 だがそんな思いも次第に消え果てた。ただ黙々と目の前のことを遂行すれば、何も苦しくない。



 馬車の窓から、ひとすじの風がナジェダの頬を吹き撫でる。かぶっていたヴェールが少しずれ、黒い髪がこぼれ落ちた。


 彼女はそのこぼれ落ちた髪を細い指でしまうと、目の前の壮麗な宮殿を見た。


 大宮殿。ヴェルサリオン宮殿という。カリスパリア皇帝が持つ五つの宮殿の一つで、儀式や公的行事の時に使用される宮殿だ。


 侍従に案内されて、馬車は宮殿の奥まで進んでいく。車止めで馬車が止められ、ナジェダは降ろされた。


 車止めに接する柱廊を歩いて行くと、大広間へとつながっていた。

 いくつもの柱が林のように乱立して高いドーム状の天井を支えている。天井には金色の壁画が描かれている。カリスパリアで信仰されている聖者の偉業を讃えたものであろう。

 床にある麗しいモザイク画は獅子が絡み合っており、壁にも同じように天使や聖人が描かれている。


 異空間に圧倒され、ナジェダは足がすくんだ。


「レナの姫君」


 侍従に促され、ようやくナジェダは歩みを進めた。


 決められた場所までくると、その場所で玉座に向かってひざまずいて礼をする。


 しばらく地面ばかり見ていると、皇帝陛下、ご入来という掛け声とともに足音が聞こえ、玉座に座る衣擦れの音が聞こえた。


「このたびは、レナとカリスパリアの和平が成って大変めでたい、との皇帝陛下の仰せである」

「……はい」


 皇帝の言葉を伝える侍従か、大臣かのよく響く声に、ナジェダは一礼する。


「レナ公爵殿の目が曇っておられ、アシュタリア連邦ばかりに目を向けられていたことは残念である。だが、今回、晴眼を取り戻されたことは大変喜ばしい、との陛下の仰せである」

「……陛下のご慈悲には、……大変感謝しております」


 懸命に考えてきた口上を述べる。

 衣擦れの音がまたもや響いた。くすくす、という笑い声が響く。


「まあよかろう。貴女も父親の目を曇らせぬために、何かお考えになられることだな」


 皇帝自身の声が響いた。その声はあまりに冷たく、厳しく、ナジェダにとっては一つの選択肢しか与えない。


「申し訳ございません」


 彼女は床に額を擦り付けて謝ることに関しては他の人間よりはるかに上手だ。美しく、惨めったらしく、同情を誘うように。

 母国が主君とする国を変えるたびに人質に赴かされ、翻弄される。その末に他人の機嫌をとることばかりを考えるようになった醜い人間なので、このくらいはできる。


「申し訳ございません、か」


 皇帝はそう言葉を残したまま去っていき、ナジェダは一人残された。


「レナの姫君、姫君にはフィオラリア宮殿を居住の地となされるがいい、と皇帝陛下が仰せです」


 誰かがそういった。ナジェダは「ありがとうございます」と首をもっと深く垂れた。



 ここにおいて、レナ公国からカリスパリア帝国の、人質引き渡しの儀は終わった。

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