第77話
「本当のケンカはしてないよ、私はそのつもりだったけど」
「だから、何でそんなつもりに」
「だって上代さん、私の知らないキヨ君を知ってたから」
そう言った瀬尾さんはリスのように両方の頬を膨らませると、ふいっと僕から視線を外してうつむく。その様を見た僕は、ふいにそれを懐かしいと思ってしまった。どうしてだろう。瀬尾さんとの思い出なんてほとんど覚えていないのに、こんな彼女を見た事があるような気がしてならなかった。
「……小学校の時から、一緒なんだよね」
うつむいたままで、瀬尾さんが言う。そのせいで、今はどんな顔をしているのか見えなかったけど、僕が「うん」と答えれば、瀬尾さんはさらに言葉を続けた。
「上代さんが言ってたのって、私が保育園をやめちゃってからの事なんでしょ……?」
「う、うん。僕が小学一年の頃だったから。なあ、まさか……」
上代さんにあの日の事を知られていたなんて全くの想定外だったけど、心のどこかで安心している自分もいたんだ。普段はあんなに自分勝手なところもあるけど、他人が本当に秘密にしておきたい事をむやみやたらと吹聴するような子じゃないって。でも、それが僕の独りよがりな憶測で、本当はクラス中の誰も彼もが知っていたんだとしたら……!
また、口の中につばがたくさんたまってきたので、僕はそれを一気に飲み込む。その音が聞こえたのかどうか知らないけど、瀬尾さんが慌てて「違うよ!」と言いながら僕に視線を戻した。
「上代さんは、私が何を聞いても教えてくれなかった。『そんなの、部外者の私が気安く口にしていい話じゃない』って」
「……」
「昨日の事を勢いで言っちゃったの、本当に申し訳なく思ってたみたい。だからケンカする気も失せちゃったし、そのメモを預かってきたの」
「……」
「でもね、やっぱり上代さんがうらやましいんだ。何があったか知らないけど、もしもその頃のキヨ君の側にいれたら、絶対に私、キヨ君の味方になったのにって」
「……何で?」
「だって、キヨ君は私の大事なヒーローだもん」
そう言って、また満面の笑みを見せる瀬尾さん。僕はぎゅうっと胸が痛くなった。また、必要のなくなった夢を掘り返されたから。
どうしてだよ? 何で瀬尾さんは、そんなに何も変わっていないんだ? どうしてあの頃のまま、そんなに自分の夢に純粋でいられるんだ? 僕は、もう……!
「……ヒーローなんかいないよ」
思わず、プリントや上代さんからのメモを持つ手に力が入る。そのせいで、それらがくしゃっと潰れる音が聞こえてきたけど、構わず僕は続けた。
「あの時、それに気付いたんだ。ヒーローなんかいない、そう都合よく助けてくれる訳がないって」
「キヨ君……?」
「プリント、ありがとう。明日は学校に行くから」
それじゃあ、と玄関のドアノブに手をかけ、勢いよく閉める。ドアが僕と瀬尾さんの間を隔てる瞬間、瀬尾さんの大きく見開いた両目が僕を捉えていたが、僕はそれに全く気が付かなかったふりをして鍵までかける。急激に速くなっていた心臓の音が、ドア越しに瀬尾さんまで届いていませんようにとひたすら願った。
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