第102話

「……あ~、いいお風呂だったぁ。葵生も早く入ってきたら?」


 どれだけ長い時間そうしていたんだろう。ふと気が付いたら、部屋の襖がさあっと開いて、ふわふわの髪をなびかせた美雪が入ってきていた。


 背後から突然声をかけられた事で驚いてしまった私は、びくっと肩を震わせてしまった勢いで抱き締めていた手紙へさらにシワを刻み込ませてしまった。慌ててそのシワを伸ばし始める私を、美雪が不思議そうに覗き込む。


「何? その手紙……」

「ちょっ! ダメよ、見ないで!!」


 私は急いで全身を丸くして、手紙に覆い被さる。これは決して、例え一文字たりとも私以外の誰かに読ませていいものじゃない。それが美雪であるなら、なおさらだった。


 そんな私の反応に「何よぉ」とふくれっ面になりかけた美雪だったが、妙な部分で聡いところがある彼女はすぐにピンと来たような顔に切り替え、うんうんと納得気味に頷き始めた。


「なるほどね。それ、西本からなんでしょ?」

「え?」

「あの唐変木が、自分の口から葵生がきっちり納得できるような口説き文句をすらすら言えるとは思えないもん。あらかじめ、手紙を用意して目の前で読んでもらったりした?」

「それはないけど……でも、用意してもらってたのは合ってるよ」

「へえ。本当になかなかやるじゃない、西本の奴。ちょっとは見直してあげてもいいかな」


 用意したのは直樹じゃなくて、別の人だけどね。それだけは決して口に出さないよう、私はぎゅっと唇を噛みしめる。何度も何度も、美雪にだけは知られちゃいけないと思いながら。


 そんな私から少し離れ、自分の布団の元へ歩いていった美雪は、お風呂でのぼせ気味の吐息をふうっと深く吐き出した後で、「ねえ、葵生」とこちらを肩越しに振り返った。


「明日はさ、一緒に夕方まで城跡公園にいようよ」

「……何で?」

「明日もいい天気らしいよ」


 そう言って、美雪は持っていたスマホを私の方に向ける。その液晶画面に出ていたのは、天気予報の一覧だった。


「今日さ、城跡公園の二の丸広場から夕焼けが見えたんだけど、ものすごくきれいだったんだよね。たぶん、人生で一番だって言えるくらいに! 何か感動しちゃって、思わず写真まで撮っちゃった!」


 ほらほらと、美雪は少し興奮気味に液晶画面をタップして、今度はフォトアプリの一覧を私に見せてくる。確かに彼女の言う通り、そこには私も今まで見た事がないほど美しくてきれいな夕焼けが鮮明に切り取られていた。


「私、ここに来てよかった」


 美雪が言った。


「あの夕焼けに誓ったのよ。私、絶対に一人前の歴史学者になるって! それでね、自分の子供か孫に、あのきれいな夕焼けにちなんだ名前を付けてあげようって思ったのよ。まあ、まだ彼氏もいないんだけどさ」

「そう……」

「あっ。今の話、誰にも内緒ね? 特に西本には。これで調子づかれて、またサボられたらたまったもんじゃないから!」

「分かってる。でも、今回のレポートが終わったら、また好きなだけ絵を描かせてあげてくれないかな?」

「何で?」

「私が留学している間、どこかの絵のコンクールに出したいからだって。直樹が私の留学を応援してくれるんだから、私も直樹の絵を応援しようって思ったの」


 彼女の事を忘れてしまった直樹が、あのスケッチブックの中身を見てどう思うのか、今はまだ分からない。それでも、彼女の言っていた訳の分からない大きな力とやらは、直樹の絵を描きたいという思いまでは奪い去る事などできない。いつかきっと、彼女が望んでいた通り、直樹の描いたたくさんの絵がたくさんの人々の心を打つ事ができると、私は直樹の隣で信じて待っている。


 それと、もしも叶うのなら、七十年後に、彼女に直接言いたい。


 あなたは大好きな人と、その親友の運命を変える事ができた。だったら、あなた自身の運命だって切り開く事はできるはずだと。だから、もし七十年後に会う事ができたら、私はちゃんとそう言ってあげる。あなたが信じてくれるまで、何度でも。


 だって私は、あなたのおばあちゃんの親友なのだから――。

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