第76話

朝から張り切って唐揚げを作っていましたから、もう疲れたでしょう。夕飯ができたらお呼びしますので、それまで少しお休みになってて下さいな。


 そう言って智広を自室に追いやると、トメは手際よくキッチンの汚れた床をそうじし始める。松永もその手伝いをしようとしたが、やんわりと断りを入れられた。


「トメがやりますので、龍平りゅうへい君は智広ぼっちゃまの所へ。寝入るまで見てやってて下さいな」

「私を下の名前で呼ぶのはやめて下さいと何度言えば……。もうそのように呼ばれるような年ではないんですから」


 照れてしまったのか、ほんのわずかに顔を逸らしてそう返す松永。そんな姿を見て、トメは彼にも申し訳ない思いを抱いた。


 拓海ぼっちゃまだけじゃない。あの日、大人だった者達は皆してこの子を追いつめてしまった。本当は、この子だってもっと……。


「トメにとって、あなたは龍平君ですよ」


 トメはそう言ったが、松永はもう床を磨き始めていて、そのまま押し黙ってしまった。





 小一時間ほどして、キッチンの床はすっかりきれいになった。


 ダメになってしまった食材を裏のゴミ置き場へと放り込み、夕飯の支度をトメに任せた松永は、やや足早に智広の自室の前へと立った。


「智広様、まだ起きてらっしゃいますか」


 控えめにノックをしながら声をかけるも、返事はない。そうっと音を立てないようにドアを開けてみれば、智広はベッドの上でだらしなく寝こけていた。


 おそらく、部屋に入ってすぐにそのまま伏してしまったのだろう。服は着替えていないし、布団すら被っていない。ベッドの向きより斜めにうつぶせになった状態ですうすうと寝息を立てていて、その右手には先ほどの手帳が大事そうに握られていた。


 手帳はページが開きっぱなしで、先ほどの文章とは違う一文がそこには記されている。見るつもりは全くなかったのだが、智広の体をうまくベッドの中へもぐりこませようとした際、松永の目に映ってしまった。


『兄さんがいるという幸せを、僕は絶対に忘れない』


 いったい、いつ書いたのかは分からない。だが、あまりにも簡素なその一文には、智広の一番強い思いが込められている。それなのに、どうして。


「何で智広様なんだ。罰なら俺に下せよ……!」


 心底悔しそうに唇を噛みしめながら、松永は震える手で智広の頬を静かに撫でる。消えてしまうなら、あの事故の際に負った頭の傷だけでもう充分だっただろうと、見た事もない神をひたすら呪った。

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