序章

第1話

はら、はら。はら、はら、はら……。


 その子供の記憶が正しければ、あの日はとびきりの快晴だった。


 春の穏やかな気候にふさわしいきれいな青空の下、何本もの木にピンク色の花が満開に咲き誇っている。それらがふわりと撫でるように吹いてきた優しい風に乗って、ほんのわずかに花弁を散らす様は、子供の目には何とも不可思議に見えた。


 二歳くらいと思しきその子供は、上着を着ていなかった。その代わりとでも言うかのように、半袖のシャツ一枚の右袖から飛び出している小さい腕には、肩の方まで真っ白な包帯が何重にも巻かれている。それを首から下げた三角巾に吊るしているのは何とも痛々しかった。


「……もう行くからね」


 自分の背丈の何倍もある大きな木を見上げていた子供は、背後からそう声をかけられて、反射的に振り返る。その先にいたのは、一人の女だった。


 舞い散るピンク色の花弁に、さあっと降り注いでくる太陽の光が乱反射して、女の顔はよく見えない。だが、ずいぶんと腹まわりの太った女だった。


 女は何だか歩くのも億劫そうな様子でゆっくりと子供に近付くと、手に持っていた紙切れをその左手に掴ませた。


「もうすぐ人が来るから。そしたら、これを渡しなさい」


 淡々とそう言ってのける女に、子供は「……ん」と小さな声を出しながら、こくりと頷く。右肩が痛い。何でこんなに痛いんだろう。いつになったら痛くなくなるの?


 いろいろと尋ねてみたい事があったが、まだいくつかの単語もどきの言葉がようやく言えるだけで、舌もうまく回らない幼子の口から出てくるものなど知れている。それが分かっていたのか、女は子供と桜の木に向かってくるりと背を向けた。


「じゃあね」


 全く感情のこもらない、別れの挨拶だった。だが、それを理解する事すらできない子供は、紙切れを掴んでいる左手をそろそろと上に上げ、右肩が痛まないように小さく振った。


「……ばいばい、またね」


 たどたどしかったが、それでも最後まで言い切る事ができた。だから、きっと褒めてくれる。笑ってくれると思っていた。


 なのに、女は振り返らない。立ち止まりもしない。子供の声も手も無視して、その姿はどんどん遠ざかり、やがて見えなくなった。子供は訳も分からず、呆然と見送る他、為すすべがなかった。




 数年後。少し大きくなった子供は、あの日見上げていた花の名前は桜なのだと知り、それとほぼ同じタイミングで、己の立場や状況というものを幼いながらに理解した。


 その日から、子供は桜が嫌いになった。

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