第123話
それは、タツさんが初めての裏オプションをこなしたその足で事務所に戻ってきた時の事だったそうだ。
いくら悪人相手にとはいえ、生まれて初めてやらかした強請りは、元劇団俳優としての才能をフルに使っても相当緊張したし、終わったら終わったでどっと疲れが出てしまったという。そのせいでタツさんは、事務所のドアノブに手をかけるまで、中の異常な空気に全く気が付かなかった。
「……やめなさい、今日子ちゃん。その話は一度ついたはずでしょ?」
早く中に入って、熱いお茶でも飲みながら一休みしようと思っていたタツさんの耳に、珍しくひどく焦ったような杠葉さんの声が聞こえてきた。どうしたどうした? 女同士で、おやつの取り合いでもしてるのかな? そう思いながら、タツさんはドアノブを捻って中に入ってしまった。
初めての強請りを終えた緊張感から解放されてたせいで、ずいぶんと気が緩んでいたんだ。もっと早く気が付くべきだったと告げながら、タツさんは野菜コーナーの大根を選んでいる。俺も隣でニンジンを選ぶふりをしながら、小声で「その時なのか?」と問い直した。
「今日子ちゃんが、その……」
「ああ、本当にあの時はびっくりしたぜ。今日子ちゃん、杠葉さんに向かってハサミ突きつけてたからよ」
おやつなら、まだ棚の中にあると思いますけど? なんて軽口を綴ろうとしていたタツさんの口は、事務所の中の光景を見た瞬間に固まって動かなくなってしまった。フロアの真ん中でハサミを持った今日子ちゃんが、正面に立っている杠葉さんをものすごい形相でにらみつけていたんだから。
「ちょ、ちょっ……これは、杠葉さん!」
「心配しないで、タツさん。何でもないですから」
冷静を装ってそう答える杠葉さんの右袖は、ハサミが掠ったのか少し裂けていたという。対して今日子ちゃんは、ひどい興奮状態になっていたらしく、ふうふうと荒い呼吸をしながら、杠葉さんに何度も同じ言葉を繰り返した。
「あなたが悪いんですよ、杠葉さん! あなたが父を、あそこまで追いつめた! その上、私との約束を全然守ろうとしないあなたが!」
「分かってる、全ては私の力不足のせいだわ。でも、準備に時間がかかるから、今はどうしても我慢してもらうしかないの。分かって……」
「くっ……!」
「それに、いざって時に、あなたがその場にいなけりゃ何にもならない! これまでの何もかもが、意味のないものになり果てるわ!! だからお願い、もう少しだけ我慢してちょうだい……!」
結局、今日子ちゃんは杠葉さんのその言葉に折れ、服をダメにしてしまった事を詫びたという。そして、それからだそうだ。今日子ちゃんが完全な裏方として、事務所の仕事に積極的に取り組むようになったのは――。
「……悪い、こんな程度の事しか話せなくて。でも、俺の見解じゃ、相当な訳ありだと見たぜ。こいつみたいにな」
最後にそう締めながら、タツさんは見切り品のジャガイモのパックを掲げてみせる。プチッと薄い緑色の芽がいくつも生えてきてしまっていて、確かにいい例えだなと思った。
「まあ、こればっかりは本人の口から気が向いた時に話してくれるのを待つしかないかもなあ」
「そうかも、ですね……」
俺は、初めて会った時の今日子ちゃんを思い出す。そして、今現在、事務所の中で働いている今日子ちゃんも思い出していた……。
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