第三章
第65話
二日後、俺はわざと寝坊した。どんなに遅くても午前八時には家を出なくちゃ始業時間には間に合わないってのに、スマホのアラーム機能をオフにした上にサイレントモードにしていたから、午前十時を過ぎる頃にはユズリハ探偵事務所からの着信の数が半端ないものになっていた。
それに一切かけ直す事なく、俺はのろのろと身支度を済ませて、のんびりとブランチを食べる。そんな俺を見た母親が心配そうに「そんなにゆっくりしてて大丈夫なの?」と言ってきたので、ちょっと……いや、それなりの罪悪感を覚えながら「うん」と答えた。
「今日は遅番だから大丈夫……」
「そう。仕事はどう? 少しは慣れてきた?」
疑う事をまるで知らない母親の言葉に、俺は二日前の仕事内容を思い出した。
午前三時までワゴンの中で待機していたけど、タツさんの言った通り、桐野家に特に変わった様子はなかった。それでも午前三時きっかりにぱちりと目を覚ました杠葉さんは、きゅっと唇を噛みしめてから「お疲れ様、後は全部私がやるから二人は上がってちょうだい」と言った。
その緊張に満ちた顔に気圧され、何も言えなくなった俺をタツさんは引きずるようにしてワゴンから降ろし、「それじゃお疲れ様でした」の一言だけでコインパーキングから出る。これから朝を待って、今度は桐野家に大金を受け取りに行くんだと思ったら、やっぱりとてもいい気分にはなれなかった。だから今、こうして遅刻三昧を決め込んでいる。
「ちょっと、厳しいかな」
俺は食事の手を止めて、ぽつりと言った。
「内容が特殊過ぎて、俺の手には余るっていうか……慣れる事はないと思う。何か、メリットを感じないんだよね」
「あら。最初からメリットだらけの仕事なんて、この世のどこにもないわよ?」
純粋に探偵業をしていると思っている母親は、俺がその大変さに少し参ってるとでも思ったんだろう。じっとまっすぐに俺を見つめ、年長者らしくアドバイスをしてくれようとしていた。
「この世の仕事と呼べる仕事はどんなものにだって長所や短所があるし、それに伴って当然メリットもデメリットもある。でも、だからってそれを無視して楽な方にばかり目を向けたって何にもならないわ。何も成長できないし、何も得やしないもの」
「それって人様に顔向けできないような、口に出せないような仕事にも当てはまるのかよ」
「そうね。お母さん、サスペンスドラマの中だけでしか知らないけど、探偵さんってまさにそんなものでしょ? だから今はつらいかもしれないけど、いつか何かしらの意義を感じられる時が来るわよ」
明るく笑いながらそう言うと、母親は俺の持っていた茶碗をひょいと取り上げ、おかわりをよそいに台所の奥へと行った。
何かしらの意義、ね。それを感じる前に辞めるよ、俺。ごめんな、お袋。
再就職先を探しておけと言っていた親父の顔が頭の中でちらつくのは癪だったが、俺は昨夜のうちに書き上げておいた退職届の入ったカバンをしばらく見つめていた。
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