第20話



「…へえ。それで結局、クランクインが一ヵ月後に延びたのか。大変だな、杏奈」


 三日後。都心の一等地にある高級マンションの一室に居を構えている西宮紘一は、二人分のコーヒーを持ってキッチンから出てきた。


 紘一の視線の先に続くフローリング張りのリビングはかなりの広さがあり、65インチサイズの液晶テレビや大きめの二人掛け用ソファーがどんと鎮座していてもまだ余裕がある。


 その二人掛け用のソファーのちょうど真ん中に、ひどいむくれっ面の向井杏奈が座っていた。


 ソファーの端っこに置かれていた同色のクッションを両腕でしっかりと抱え込み、その上にあごを押し付けるような感じで乗せている。カメラの前に立っちゃいけない顔をしているなぁと苦笑いを浮かべながら、紘一はソファーの前にあるローテーブルにコーヒーカップを乗せた。


「今、『悪魔の母性』以外で大きな仕事を取ってなかっただろ?ちょっと長めの連休になっちゃうか」

「…大迷惑以外の何物でもないわよ、あいつ」


 顔の下半分までクッションに埋もれさせているせいで、紘一の言葉に応える杏奈の声がひどくくぐもる。それがちょっとおかしくて、紘一は思わずぷっと小さく吹き出してしまった。


「何がおかしいの?」

「いやいや、ごめん」

「本当に大迷惑でしかないんだからね?あいつのせいで、何もかもスケジュールが狂わされて。しかも、誰もそれに文句を言わないんだから」

「池浦監督はこだわる人だからさ。仮に本郷さんが読み合わせの時に何も言わなかったとしても、現場でいろいろ変えてたんじゃないか?」

「ちょっ…この上、現場に入っても同じ事されたら、さすがに私キレるんだけど?」


 横目でじろりと紘一をにらみつけるように見上げてくる杏奈に、彼は今度はどこか安心感を覚えた。


 芸歴がまだ浅いせいか、それとも彼女自身の性格によるものか、杏奈はある意味女優というよりタレント性の方が強く、本人にもその自覚が足りていないような旨が見受けられた。


 だから、例え恋人の役を奪った気に入らない人間の言動が要因だったとしても、自分が主役を張る映画の製作スケジュールが遅れる事にこれほど怒りを覚えるのは、少なからず女優として成長できているという証のように思えて、紘一は嬉しかったのである。


「まあ、それもそれでいいんじゃないか?」


 杏奈に横へずれてもらうように促してから、紘一もソファーに座った。

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