第2話

あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。五月の連休最終日の昼時の事で、本当によく晴れていた。だから、ものすごく楽しみにしていたのに。


「……ねえ! 本当に行っちゃうの、お父さん!!」


 玄関先に座り込み、靴ひもを結んでいる父の大きな背中に向かって、五歳の私はそう文句をぶつけていた。ずっと前から約束していた事を、その日の朝になって急に反故にされた事がきっかけだった。それから私はずっと父の側にまとわりついて、何とかしようと必死になっていたのに。


「ごめんな、唯。お父さん、どうしてもお仕事に行かなくちゃ……」

「ひどいひどい! 皆で遊園地行こうって約束してたのに! この前のお花見だって、結局行けなかったじゃない~!!」


 当時、父はある運送会社でトラックの運転手をしていた。さすがに会社名は覚えていないし、この頃は知る由もなかったけれど、いわゆるブラック企業と呼ばれても支障のない業務体制だったらしく、父は過労死ラインをゆうに超える労働時間を強いられていたそうだ。


 だが、当時の父がつらそうな振る舞いをしているところを私は見た事がなかった。普通に働いている普通のお父さんだと信じていたし、ほんの少しでも疑わせるような素振りもなかったから、きっと母も気付いていなかったと思う。だからこの日の母も、私の擁護に回ってくれていた。


「そうよ。いくら急に人手が必要になったからって、せっかくのお休みを返上する事ないでしょうに。いつまでもお預けさせてると、唯に嫌われちゃうわよ?」


 せっかく早朝から張り切ってお弁当作りに精を出していたのだ。母の口からもう何度目になるか分からないため息が出るのも当然で、それを聞いた父の背中がビクッと震えていた。


「……本当に悪いと思ってるって。その代わり、来週の日曜は絶対に休みをもらうから」

「どうだか」

「こ、今度の今度は本当だ! なあ、唯!」


 靴ひもを結び終えたらしく、父は勢いよくぐるりと振り返ってくると、その大きな両手で私の頬をそっと包み込んだ。


「大丈夫だ、唯。唯が楽しみにしていたキララちゃんパレードは、来週の日曜日でもまだやってるから! お父さん、唯の事を肩車して、誰よりも高い所から見せてやるぞ?」

「むぅ……」

「な、何だよその目はぁ? 信用してくれって、今度こそ絶対だ!!」

「本当?」

「本当の本当だ。今日の仕事が終わったら、会社の人にビシッと言ってやる!! お休み下さ~いってな!!」


 今思えば、この時父は会社に何かしらのアクションを起こすつもりだったのだろう。労働組合があったのなら、そこから発起してストライキでも始めていたかもしれないし、極端な話、辞表の一つや二つ出していたかもしれない。もっと、もっと早くそれをやってくれていれば……。


「それじゃ、行ってくるからな」


 普段よりも豪華な中身の入ったお弁当箱を一つ持って、玄関から出ていった父。その後ろ姿が、私が見た最後だった――。

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