第63話

◇◇◇



 施設に入ったばかりの頃、僕もなかなかその生活に慣れなくて困っていたけれど、弟はもっと大変だったと思う。


 何がトリガーになるのか全く分からなかったけれど、弟は母から受けたひどい仕打ちの記憶が何度もフラッシュバックしていたようで、そのたびに大きな叫び声をあげて泣き喚いた。


「母ちゃん! 母ちゃん、どうして怒るの!? 僕も兄ちゃんも、ずっといい子で待っていたのに!」

「母ちゃん、僕を嫌いにならないで! 僕、もっとカッコよくてきれいなのを作ってあげるから!」

「やだ、やだよぉ! 母ちゃん、母ちゃん行かないで~!」


 それは朝も昼も夜も、いつだってお構いなしに弟を苦しめた。弟の持つ才能が、誰よりも弟自身を苦しめ続けていた。僕は、そんな弟が落ち着くまで、ぎゅうっと抱きしめて、ずっと頭を撫でてやった。


「大丈夫、大丈夫だからな。後で兄ちゃんが、またお話聞かせてやるから。今日はどんなお話がいい? 楽しいお話か? それともドキドキするお話か?」


 僕は、弟の頭の中のタンクが楽しいものでいっぱいになるよう、たくさんの物語を作り続けた。時々、その物語を書き綴っていたノートを一緒の施設に住んでる奴らに取り上げられてからかわれる事もあったけど、僕は決して書くのをやめなかった。


 僕の物語を読んでいる時、弟はいつも笑顔だったからだ。だんだん、自分の才能とうまく付き合うコツを見つけて、上手にそれを扱えるようになっても、僕の書く拙い物語を必要としてくれた。心の支えとしてくれていたんだ。


 だから、そんな弟が、僕がひと足先に施設を出る年になった際にこう言った時は、本当に驚いた。


「兄ちゃんがこれまで書いてきた小説、どこかに投稿してみたらどうかな?」


 何をバカな事を、と笑ってしまった。僕の作品は、弟一人だけの為に書いてきたもので、他の誰かに読ませられるような立派なものじゃない。学も才能も持ち合わせていない僕の物語なんて、どこの誰が好き好んで読んでくれるというんだ。


 そう何度も言ったのに、弟は珍しく引き下がらなかった。「僕は兄ちゃんの書いてくれた物語でずいぶんと救われたんだ。それだけ、兄ちゃんの物語は温かくて優しかった。だから、きっと他にも、兄ちゃんの物語を必要としてる人がどこかにいるよ」と――。


 弟があまりにもしつこかったから、僕はたまたま見つけたこのサイトに投稿を始めた。どうせ誰も見やしないと思ったが、パソコンのキーボードを叩く僕の背中を満足そうに見つめる弟がいたから、結局今の今まで続けている。


 全く、この惨状をどうしてくれるんだ? あんなに泣き虫だった我が弟よ。


 兄ちゃんはすっかり欲張りになってしまったじゃないか。お前一人だけの兄ちゃんでいればよかったのに、今じゃ僕の作品を読んで下さってる皆さんのHiroでもなくちゃいけないんだぞ。そんな横で笑ってないで、たまには兄ちゃんの肩でも揉んでくれ。



◇◇◇

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