第76話

その日の昼休み、俺はいつものように図書室に向かって廊下を進んでいた。


 あれから圭太は学校に着くまでずっと押し黙っていて、昇降口の所で「じゃあ、また放課後にね」とだけ言って、一人でさっさと自分の教室へと行ってしまった。


 普通の奴だったら、この時点で圭太の様子がおかしい。もしかしたら、何か気に障るような事をしてしまったのかもしれないとまで思い至るかもしれないが、俺という奴は本当に鈍い奴なんだと心から思う。「おう」とだけ返して、圭太の背中を見送るしかしなかったんだから。


 図書室の中に入って、例の書棚の方へとまっすぐ向かう。すると、やっぱりあいつの鼻歌が聞こえてきて、俺は「よう」と軽く声をかけた。


「お前、最近いっつもここにいるな。飽きないのか?」

「俊一君こそ。私は夏休みになったらコンクールがあるから、今からしっかり対策してるだけ」


 俺が来る事に慣れたのか、あいつはもう肩を震わせて驚くような素振りは見せなくなった。そして、あの楽譜本のページをめくってまたそちらを見始めたので、俺はちょっと得意気になって口を開いた。


「お前が歌っているその歌、タイトル覚えたぜ?」

「え?」

「『アメージン何とか』!」


 俺は、あいつが開いていたページに描かれているタイトルを指差して言った。読めなくてもスペルは大体覚えていたから、間違いはなかったはずだ。


 なのに、あいつは少し間を置いた後で、ぷぷう~っと思いきり吹き出すような笑い声を立てやがった。


「ちょっ…俊一君ったら。こんな有名な賛美歌捕まえて、『アメージン何とか』って…」

「何だよ、別に間違ってないだろ」

「そうなんだけど、そうじゃないっていうか…もうヤダ、おかしい」


 あいつは楽譜本を抱えたまま、上半身を前に折り曲げてまだ笑い声を立てる。何がそんなにおかしいんだよって思ったし、あいつがどんな顔で笑っているのが分からないのが、何だか気に食わなかった。


 ひとしきり笑って気が済んだのか、やがてあいつはゆっくりと体勢を元に戻して、俺に向き直った。そして、「ねえ、俊一君」と切り出した。


「さっき話したコンクールなんだけど、見に来てくれない?」

「はぁ…?」

「そんなに大きな規模じゃない地方のコンクールなんだけど、個人で出るのは初めてなの。だから、ちょっと応援が欲しいなあって思って。ダメ?」


 そう言って、あいつがわずかに首をかしげてくる。この時、俺はふしぎな気持ちでいっぱいになった。


 何で、俺なんだ?俺と違って、きっとあいつにはいろんな友達や知り合いがいっぱいいるだろうに、何で俺に声をかけたんだ?


 俺がこの答えを知るのは、もう少し先の事。あいつが出場した、そのコンクール当日の事になる。

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