第64話

「やだ。もしかして今の…聴いてた?」

「だから声をかけたんだろ。こんな所で歌ってんじゃねえよ」

「あはは、そうだよね。ごめんなさい」


 そう言って、あいつは軽く頭を下げてきた。その両腕は、先ほどの本を胸元に引き寄せるようにして抱え込んでいる。表紙がこちらを向いていたが、英語のタイトルで何て書いてあるのかよく分からなかった。


 きっと、そのせいだ。こんな不用意な事を言ってしまったのは。


「何、読んでたんだよ」


 言ってしまった後で、自分のバカさ加減が嫌になったくらいだ。そんな事を聞く前に、もっと言わなきゃいけない事があるって言うのに…。


 だが、あいつも相当鈍い性分だったのか、特に不思議がるような口調もなく普通に答えてきた。


「去年の全国独唱コンクールに使われてた課題曲を収録してる楽譜本だけど…」

「読書コンクール?」

「違う違う。読書じゃなくて、独唱。一人で歌う事」

「あ、ああ、そうか。何でそんなもん…」

「俊一君こそ、どうして図書室に?」


 人がまだ聞いてる途中だっていうのに、あいつが俺の言葉を遮って聞き返してくる。やっぱり鈍いんだなと思いながら、俺は半分だけ正直に答えた。


「暇つぶしに、何か小説でも借りようと思ったんだよ。そしたらお前がいたから」


 あの試合の時の事、謝ろうと思った。今を逃したら、たぶんもう二度とタイミングもチャンスも来なくなる。だから、次のひと息と同時に「ごめん」という言葉を吐こうとしてたのに。


「へえ、俊一君って読書家なんだ。何を借りに来たの?」


 頼むから空気読めよ。お前は俺と違って、『普通』だろ?俺自身は分からないけど、俺の顔をよく見て、何を言おうとしてるのかくらい察してくれよ。


 そんな俺の気持ちは全く届かず、あいつは上半身を少し前のめりにして、こちらに顔を向けてくる。自分の鼻歌の事なんかすっかり忘れて、俺が何を借りに来たのか興味津々って感じだったんだと思う。


 小さく息をついてから、俺は元いた本棚の方へとゆっくり進み出す。そんな俺の後をあいつがついてきているのを確認すると、俺は一冊の本を手に取った。


「これにでもしようかと思って」


 俺の手が掴んだのは、小泉八雲の短編集。タイトルは『貉』だった。

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