第64話

「本当、あいつには敵わなかったよ」


 宏樹の指先が、机にそっと触れる。


「身体はどんどん弱っていくくせに、それに反するように心が強くなるんだ。まあ、陸上やってた頃からそうだったけどな。強い相手がいればいるほど、あいつはもっと速くなった」

「聞いた事あるかも。宏樹、あいつには一度も勝てなかったんでしょ?」

「…っ、あのヤロ。何で理香にそういう事は話すんだよ。病気の事はギリギリまで言わなかったくせに」

「ふふ。あいつらしいじゃない。あいつは自分の事より、ずっと私達の事を心配してくれてたから」

「そうだった。そういう奴だったよな」

「うん。だから…」


 私は、机の上に静かに伏せた。


 宏樹の言う通り、この席に座る事があいつの最後の望みだった。


 本当なら、私達と一緒にこの教室に通って、一緒に勉強して、一緒に過ごせるはずだった。そんな十七歳の当たり前の生活が、あいつもあるはずだったのに。


 それなのに、強く望まなければあいつはこの席に座れなかった。強く願ってくれなければ、私はあいつをこの席まで連れてくる事ができなかった。


『ありがとう、理香。やっと座れて嬉しいよ、僕』


 あの時のあいつの言葉が甦る。まるですぐ近くで、しかも耳元で囁かれたように。


 そんな訳がない。今、机に伏せてしまっている私の右耳は、机のひんやりとした感触しか拾っていないし、残った左耳は次の宏樹の言葉しか受け取っていなかったのだから。


「次はどこに行こうか、理香…」


 私は答えた。「あいつが一番好きだった場所」と。

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