第76話

僕は話し続けた。


「噂だけで聞いたんだが、同じ会社の人だったんだろ?」

「ああ、告白されてな…」

「へえ。やるなぁ、奥さん」

「プロポーズも美代子からだった」

「おいおい、男でそれはちょっと…」

「どっちでも良かったんだよ」

「え?」

「どっちでも、良かったんだ…」


 僕は自分の耳を疑った。健司の口からそんな言葉が出てくるなんて信じられなかったのだ。


「今、『どっちでもいい』とか言わなかったか?」


 そう尋ねたら、健司はすかさず頷いてみせた。


「ああ、言った…」


 少し低めの声も返ってきた。わずかに身を起こした健司の両腕はハンドルを力なく握り締め、下唇を軽く噛み締めていた。


 先ほどと違って不機嫌な訳でも、ましてや怒っている訳でもなさそうな複雑な健司の顔から、僕は目が離せなくなった。


「佐伯」


 少しして、健司が僕を呼んだ。


「お前、今でもチリが好きか?」

「え…」

「俺は好きだ、今でもチリの事が」


 そう言って、健司は僕を見た。その瞳に嘘偽りはなかった。


「チリの娘、確か葵って名前だったよな」


 健司が言った。


「多分…いや十中八九、葵は俺の子供だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る