第15話 本当のアニー。
それから数日後、
「あのジュースと同じ味のものが、もう一度作れるのでしょうか? 」
突然訪問して来たアニーが息を切らせながらそう問うたのが、まだ昼の暖かさの残る、午後三時ごろのことだった。
「あのジュース、とは……? 」
「以前、私の家で飲ませていただいた、涼さん自家製のジュースです」
「ああ、あのときの……。あれと同じ味、ですか。恐らくは造れるとは思いますが……」
なんのことかわからないままそう返答すると、アニーの顔にぱあっと明るい色が広がった。
「可能ですか! 良かった……! 」
「いったい、なにがあったのですか……? 」
俺がそう問うと、アニーはここまでの経緯をいかにも嬉し気に話して聞かせてくれた。
今後の話し合いの為に、俺たちは宿を出て彼女の母親の生家であるフィヨル広原の家に場を移していた。
「同じ味を造ること自体は可能ですが、問題は量ですね。二十本も造るとなると、たった一本造るのとはわけが違いますから」
アニーに使いを寄越した“至高の美食会”は、試飲用の一本に加えて、各メンバーが自宅に保管する用の一本を要求したのだ。当日、会議に集まるメンバーが十九人で、それで、計二十本必要だ、というわけである。
「向こうも造る労力には心痛していて、二十本はすべて、高額で買い取るとのことです」
「高額って、いくらです? 」
アニーはその金額を口にした。
「とんでもない金額ですね……」
と、俺は思わず、呻く。
「少なすぎますか……? 」
と、アニーが心配そうに、俺の顔を窺う。
「いえ。逆です。高すぎますよ。たかだがジュースですからね。こんなに貰って良いのかな」
「私も相場は知りませんが……」
と、アニーはしばしのあいだ思案顔になって続けた。
「それよりも、ニ十本も造るとなると、素材集めが大変ではありませんか? 」
「そこはまあ、なんとかなるでしょう」
「誰か、臨時でパーティーを組んでくれる方がいらっしゃるのですか? 」
と、アニーの眉間に、心配そうな皺が一本浮かんだ。
「いえ、一人で行くつもりです」
「一人!? 危険過ぎではありませんか!? 」
と、アニーが急に声を荒げて言う。
「それほどの量の素材集めとなると、ずいぶん時間も手間もかかるでしょう。危険もたくさんあるはずです。涼さんになにかあったらと思うと……! 」
と、アニーはそこまで言うと、その先の言葉をぐっと飲んだ。
「大丈夫ですよ」
と、俺はいささかアニーの剣幕に圧倒されながら、こう言い諭した。
「それに、どうしたって冒険には危険がつきものです。危険だからと言って、冒険から逃げているわけにはいきません」
「でも、だからと言って……」
と、アニーがなおも食い下がろうとする。
「それに」と、俺はもう一つ、付け加えた。「なるべく一人でやりたいのです。なるべく一人でやること、それが俺がこの世界で生きる基本方針ですから」
「そう、ですか……」
このフレーズを言うとアニーが黙るのだと、わかっていた。
彼女は心配そうな表情を崩さないまま、唇を固く横一文字に結び、俺のことをその両の眼でじっと見据えている。もしかしたら最悪のケースがその脳裏に浮かんだのかもしれない、彼女の眉が垂れ、その不安そうな影がもう一回り、深くなった。
「そう心配しないでください。無茶はしませんから。危険を感じたらすぐに引き返します。約束します」
そう言うとようやく安心したのか、アニーは軽く胸を撫で下ろし、
「私が何を言っても涼さんは聞いてはくれないのでしょうね。……わかりました、私はただここで待っています。でも、お願いですから、絶対に無事に戻ってきて下さいね」
「約束します」と、ようやく笑みを見せたアニーに心が安らいで、俺は彼女を励ますように言った。
「必ず無事にここに戻ってきます。ですから、アニーさんはゆっくりくつろいで、ここで帰りを待っていてください」
陽も落ち始め、そろそろ帰ろうかと身支度を始めていると、
「夕飯を食べて行ってください。そのために食材も買ってありますから」
と、アニーが先に席を立って言った。
「良いのですか? 」と聞くと、
「もちろんです。それに、一人で食べるより、気心の知れた方と一緒に食べる方がずっと美味しいのです」
と、料理を振る舞ってくれる彼女の方がむしろ喜んでいるかのようで、俺の方でも嬉しかった。
「では、遠慮せずいただきます。アニーさんの料理はいつでも素晴らしく美味しいので、今日も楽しみです」
「涼さんの作るジュースほどではありませんが」と、アニーはその豊満な青い髪のなかでにっこり笑って、「料理には多少の自信があるのです。そう言っていただけると、とても励みになります」と、見るからに嬉しそうに笑った。
その日のメニューはトマトとモッツァレラチーズを使ったカプレーゼと、フレイル・バードのトマト煮、それから、こんがりと焼いたガーリックトーストだった。
どの料理も素晴らしかったが、良く煮込んであるフレイル・バードの身は特に美味しく、フォークで軽くほぐしただけでスープの中で溶けるように解けてゆくのだった。一口食べるたびに「美味しい! 」と顔を上げると、アニーはいかにも嬉しそうに笑みを零し、そのときばかりは「上質なフレイル・バードが市場で手に入ったのです。自分で作っておいて言うのもなんですが、本当に美味しいですね」と、飾らない調子でこの宴を楽しんでくれた。
「ジュース造りはともかく、涼さんは冒険者として、今後はどのように過ごすおつもりなのですか? 」
と、アニーはグラスに注いだ白ワインを一口飲んでから、そう言った。
「出来れば、装備品を整えたいと考えています」
「装備品、ですか? 」
「ええ。今でもパルサーに貰った上等な装備は身に着けていますが、もう少しグレードの高いものが欲しいのです」
そういった冒険者的なことはアニーにはわからないのか、彼女は肯定するでも否定するでもなく、曖昧に頷いている。
「この間のクエスト達成で、冒険者ランクがFからEに上がったんです。ですから、もう少し危険なクエストも、受注できる。そうしたひとつ上のクエストに挑むためにも、新しい装備……今回欲しいのは、魔術を唱える為の小ぶりな杖ですが……そういった専門的なものを整えておきたいのです」
「新しい装備品を買うのに、どれくらいのお金が掛かるものなのですか? 」
俺はおおよその金額を言った。
「……結構しますね。でも、ジュース造りの報酬が入れば、ひとまずは揃えられそうですね」
「いえ、そのお金は装備品を揃えるのには、使わないつもりです」
と、俺は言った。
「冒険で身に着ける装備は、基本的にはクエストで稼いだお金だけを使うつもりです。……慎重過ぎるとは思いますが、お金のことでは常に冷静でいたいのです」
「もしその装備品を誰かにプレゼントしてもらえるなら、涼さん的には、それはアリですか……? 」
と、そのとき、人懐っこい子犬のようなきらきらした目で、アニーが茶目っ気たっぷりに、そう言った。飲み始めていたワインが効いて来たのか、元来がこういう悪戯っぽいところのある人なのか、いずれにせよ、人の面倒を見たがる過保護なところがあるのは確かだった。
「アニーさん、……買ってきたりしないでくださいね」
と、俺はさすがに、呆れて言った。
「駄目、ですか……! 」
と、アニーは大げさに項垂れて見せた。
楽しい。
アニーが注いでくれた白ワインを口に含みながら、そんな言葉が、自分のなかに溢れる。
そんなとき、ツルゲーネが前回会ったときに俺に言った言葉が、意識の表面を、つんつんと指でつついてくる。
「お前には鈍いところがあるからな」
ツルゲーネはそう言ったのだった。
ツルゲーネはアニーには俺に対する恋心があるのだと匂わしたが、果たして本当にそうなのだろうか。あいつが言うように、俺は鈍いのだろうか。
酔いの回った潤んだ瞳で俺と話すアニーは、確かにそうした愛情があると錯覚してしまいそうなほどに、親し気に話してくれる。
だがそれは俺がいわゆる”ビジネスパートナー“だからであり、あくまでも彼女が誰にでも優しいシスターだからではないのか。
この程度の愛情を過大評価して、彼女が自分を好いてくれていると自惚れることであとで痛い目に合いたくはなかった。
そんなことを考えていると、
「涼さんがジュースを作成したあと、そのジュースを持って、“至高の美食会”の面々と顔を合わせることになります。……その辺りのことは大丈夫でしょうか? 」と、アニーが言った。
「大丈夫か、というのは、どういう意味でしょうか」と聞き返すと、
「……彼らは上級国民です。集まるメンツのなかには国政に直接関わっている者もいます。ですから――」
「差別を受ける可能性がある」
と、俺はアニーにその言葉を言わさず、先回りをしてそう言った。すると、アニーが神妙な面持ちで、こっくりと、頷く。
大丈夫かと聞かれれば、大丈夫ではなかった。
だが、
「大丈夫です」と、俺は精いっぱいの笑みを見せてそう言った。「あのジュースの製作者が第四階級の、それも”物乞い“の造ったものだとわかれば、ひどい仕打ちを受けるかもしれない。でも、大丈夫です。あらゆる可能性を考えましたが、覚悟は決めているつもりです」
どんな反応をされるかわからないということで言えば怖くはあったが、ここで逃げ出そうという気も起きないのだった。
この世界に生きている限り、差別を受ける可能性は常に俺のすぐそばに渦巻いている。このジュース造りに関してはなにか“新しい扉”を開けそうな可能性を感じるし、そこに飛び込まない手はなかった。
「それよりも……」と、俺は言葉を継いで言った。「アニーさんの方こそ大丈夫でしょうか。先程の話では、アニーさんは当日、紹介者として俺に付き添ってくれると言いました。でも、製作者が第四階級の物乞いだとわかれば、紹介者であるアニーさんも、ひどい仕打ちを受けるかもしれない」
すると……、アニーは思いがけない熱い調子で、こう言葉を紡いだ。
「私は当日、聖女アニーとして会に出席し、あなたを友人だと紹介するつもりです。私は逃げも隠れもしません。どんな評価を下されようとも、あなたの友人としてそこに立っていたいのです」
俺は思わずアニーの顔をまじまじと眺めた。
アニーがこれほどの熱い覚悟を決めているとは思ってもいなかったのだ。
「アニーさん。そう言ってくれると、すごく嬉しいです。これほど嬉しいことは、ほかにないかもしれません」
自分のなかに湧きあがる喜ばしい感情を抑えきれずにそう言うと、
「私は長いあいだ、聖女であることも貴族であることも隠してシスターの仕事に就いていました。自分の本性を隠すことでしかこの世界と上手く付き合えなかったのです。でも、涼さんと出会って、今は勇気を貰っています。この世界を本当に変えられるのではないか、という希望さえ感じています。ですから、私ももう一度、この世界と正面から向き合ってみたいのです。聖女アニーとして、”本当のアニー“として」
そう言うとアニーは椅子を立ち、料理の並んだテーブルの上にそのか細い掌を差し出した。
「涼さん、こんな無力な私ですが、どうかこれからもよろしくお願いします。私はあなたといたいのです」
「こちらこそ」と、俺も席を立って掌を差し出した。「俺も、これからもあなたといたい」
「なんだか、照れ臭いですね」
と言って、彼女はその小さな顔を真っ赤に染めて、そう笑った。
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