第9話*




「ん゛っ、ぅ、ふぅ、んん゛っ」


息が苦しくて涙が滲む。


夏樹の口付けは執拗だった。それ自体は望むところとはいえ、本気で息が苦しくて窒息死できそうだ。逃げようにも、がっしりと頭を抱え込まれていて自分のタイミングで息を継ぐこともできない。あまりの苦しさに、頭に張り付く手を解こうとその手首を掴んで引きはがそうとはしたのだが、頭に溶接されているのか疑いたくなる程にピクリとも動かず、まるで歯が立たない。


咥内をいいように舐めまわされ、自分のか夏樹のかも分からない唾液を嚥下せざるを得ないこの行為は、キスと形容するにはあまりに野蛮な行為に思えた。

そう思っているのに、私は下着が割れ目に張り付くくらい濡れている。息が苦しくて仕方ないのに、彼の舌や唇という柔らかい場所に噛みついたりせず、悶えながら余すことなく受け入れている。


いつの間にか脚の間に彼の体が割り入っていた。ぐずぐずと疼く熱を持て余して踵でシーツを蹴り飛ばすけれど、まるで逃げ出せない。


「ん、はっ、なつ――――」

「喋んなや」


彼の名前を呼ぼうとした。もうこんなのやめないと。でも続きを――――もっとして。何が言いたいのかは自分でもわからなかったけれど、じろりと睨み下ろされ、低い声で命令されて、呼吸と一緒に言葉も飲み込んだ。


改めて見上げた夏樹に見惚れる。ゆらゆらと炎そのもののように揺らめく髪に、白目部分が暗い朱色の縦に割れた瞳孔をした目の彼は、まさしく異形だ。


「俺の事しか好きじゃないくせに、散々浮気しよって・・・」

「むぐっ、ぅっ」


彼の大きな手は、片手で容易に私の両頬を押しつぶした。頬の内側の柔らかい肉が自分の歯で押しつぶされて痛い。でもまともに抵抗ができない。こんな暴力的に睨み下ろされているのに、下腹部が今まで体験したことがない位に疼いている。全身が熱くて脳みそが茹りそうだった。


「ちゃんと逃がしてやろうと思っとったんやで。ほんまに、そのつもりやって」


彼の表情は怒りに歪んでいるのに、なのにまだ、時折ぽろりぽろりと涙が零れ落ちている。


笑いたくなる。私たち、同じこと考えてたんだ?

ねえ分かるよ。本気で逃がしてあげるつもりだったんだよね。でも逃がしたくなかったのも本音でしょ?私もそうだよ。私だって、夏樹の幸せを願ってたんだよ。だけどもう無理。無理なの。絶対逃がさない。


「でももう無理やわ。一緒に堕っこちてや」

「っ!」


びっ、と鋭い音がして、部屋着の草臥れたTシャツの正面が真っ二つに割れ、体から滑り落ちる。そんなに薄っぺらい布じゃないはずなのに、まるで紙切れのように切り裂かれてしまった。


私の頭に浮かんだのとまるで同じ言葉を絞り出した彼が、好きだ。好きで、愛しくて堪らない。間違いなく、私のテンションは、夏樹が死んで以降一番高い状態だろう。服を切り裂かれて、力づくで口を塞がれて、頭と胸を締めるのは狂いそうなほどの喜びだけだなんて、ほんとどうしようもないイカれた女だ。


「ぅ、ぅうぅっ」

「なんや。悔しいの?そんな睨みつけても可愛いだけやで?」


片手で私の口を覆ったまま、夏樹は小首を傾げて私を見下す。にやりとした笑みは初めて見るもので、その大人の色気にてられる。

それが悔しくて引っぺがすように視線を逸らすけれど、腹の底が疼くのは止められない。もうすでに夏樹の体は私の脚の間にあるわけで、痴女みたいに濡らしたそこが部屋着越しとは言え、無防備にさらされてしまっているのだ。それが不安で、でもそれ以上に焦れったくて、情けない程呼吸が乱れてしまう。

暴走する鼓動の音は、そのピント尖った耳には届いてしまっているんだろうか?だとしたら恥ずかしくて死ねそうだ。


「なあ、俺妖怪になってから人間の頃まえよりずいぶん鼻が良ぉなってな」


くちゅっ


「ッ!?ふ、ッぅ、~~ッ」

「これ、バレてないと思ってたん?」


彼と私の恥部が、服越しに重ねられて、私は大げさなほどに腰を跳ねさせて呻いた。「キスしただけでえらい雌臭い匂いさせとるやん」なんて、意地悪で卑猥な事を言われてカッと顔面い血が上る。思い切り睨み上げるけれど、彼はまるで気にしたそぶりを見せない。


「んははっ!睨んでも可愛いってなんなんマジで。今俺化けの皮剥がれてしまってるやんか。なのにそんな濡れた目ぇしててええの?あんた今、化け物に犯されそうになってんねんで」


お互いにズボンを履いてる状態なのに、彼の熱が滲んで来る。口を押えられているのだから答えられるはずもないのに、夏樹は実に悪い笑みを浮かべて、酷い言葉を吐く。もし口が利けたなら「そっちだって勃ってるじゃん」と悪態をつけたのに、悔しい限りだ。


「はっ、もー、あかんなぁ、ほんま」

「んっ、んんぅ、ッ」


強く腰を押し付けられて、服越しとは言えクリトリスが潰されてしまう。走った快感に思わず甘えた声が漏れた。

くだらない。服の上から触れ合っているだけだなんて、児戯みたいな触れ合いなのに、なんてだらしない声を上げているんだ。

ばかみたいに興奮している自覚はあった。それこそ、かつてない程に興奮している。なんならもう、こうやって服の上からお互いの恥部を擦り合わせているだけでも果ててしまいそうなほどに。


分類的には痴女に近いのだろうけれど、私は殊更敏感で、何をされても気持ちいいというような体質ではない。不感症とは言わないけれど、感じやすいかと言われたら否と答えるだろう。なんも気持ちよくなかったわ、みたいなセックスの経験だってザラにある。


それがこんな、服越しの触れ合いだけでイってしまいそうだなんて、正直どうしていいか分からない。


「殺してやりたいくらい腹立つのに、かつてない程テンションぶち上がってんねんけど、どうしたらええんやろ」

「――――ッ」


夏樹の言う支離滅裂な言葉に、どうしようもなく同意したかった。私なんてもっとひどい。聞きたい事は山ほどあるし、彼の言う通り、夏樹の見た目に少々ビビってもいるのに、この先の行為を、そして一緒に堕ちろという言葉を、その意味を、この上なく期待しているのだから。


ぷち、と軽い音を立ててブラまで真ん中で切り裂かれてしまう。口元を手で覆われているせいでどうやってるんだか見えないけれど、なんとなく動作から、爪で切り裂かれたのかなと予想はできた。それにしても、そんなにばっさばっさ人の服を切り裂いて、あとで覚えておけよ。弁償してもらうからな。


「はー、もー、マジであかん。ちょっと待って」


大きく息を吐きだして身を起こした彼は、私の口を覆っていた手を外すと、再度両手で自分の顔を覆った。掌で目元も頬も一気に拭って涙の痕跡を消している。覆っていた手を外した彼は、元の、人間にほど近い、彼の言葉を借りるなら状態に戻っていた。


白目も白に戻っている。あの暗い朱色もそれはそれで素敵だったけれど、まあ別に、異形に犯される趣味がある訳でもない。普通な方が見慣れていてやりやすそうだという、その程度の感想しか抱かなかった。


彼の頬へそっと手を伸ばして、もう拭い去られた涙の痕を辿り、そうして彼の体温を感じながら、私は消え入りそうな声で尋ねた。


「・・・一緒にいられるの?」

「あんたは人間やめることになるけどな」


鼻で嗤うような、ちょっと小ばかにしたような仕草で、彼は言葉を投げ捨てる。そんな悪びれた言い方をしながらしかし、彼の視線は私の返答を、様子を伺うように、真っ直ぐにこちらへと定められていた。


不安なのかもしれない。


まあだって、「人間やめる」なんてなかなかだ。

そもそも人間をやめるって何だ。私も猫人間になる感じなのか。猫耳生える感じなんだろうか。まあまあ嫌だな。それとも幽霊だろうか。


「・・・やめても、夏樹とこうやってお互いに触ることできる?」

「当たり前やろ。むしろこれからも触りたいから人間やめさそうとしてんねん」


随分と明け透けな物言いだ。


まあそうだ。薄氷を踏むような生活をずっと続けるのはしんどい。一緒にいられるだけでいい。そしてどうせなら言葉を交わしたい。更に言うなら触れ合えるならもっといい。どうしてこうも強欲なんだろう。夏樹に対して足る事を知る事ができない。


つまるところ、猫人間どんとこいという話だ。


「じゃあいいよ、全然。人間やめる。親に迷惑かけたくないから、退職とかマンションの解約とかはしたいけど」

「・・・あっさりしすぎやろ・・・意味わかって言ってんの?」


私の回答に、夏樹の方がためらいを見せる。言葉を選ぶように、ゆっくりと問いかけてくる。

もしここで、私が「やっぱりやめる」って言ったら夏樹は私を殺してくれるのだろうか。そうならいいのに。きっとそうはしてくれないだろう。いやそもそも、夏樹と生きる――で合ってるのかは分からないが――未来があるのなら、態々怖い思いをして死にたいわけでもない。


頬に置いた手をゆっくりと滑らせて、彼の首に腕を絡める。

それを黙って受け入れる夏樹に、その、ちょっとだけ挙動不審な様子に、今度は私が笑った。


「多分分かってないけど・・・別に何でもいいよ。絶対私の方が夏樹の事好き」

「――――アホか。んな訳ないやろ。絶対俺の方が好きやわ」


私の可愛げのない告白に、夏樹は一瞬面食らったような顔をして、それから存外嬉しそうな笑みを浮かべた。


伸びて来た彼の両手が私の顎の輪郭を這いあがる。そのまま髪の中に手を突っ込んで、くしゃりと乱しながら頭皮を撫でた。それがくすぐったくて少し肩を竦めた私の唇を、夏樹はそっと自分のそれで塞いだ。


受け入れるように、唇を開いて、それから絡ませた腕に力を込めて更に彼を引き寄せる。


でも、両肘を私の肩の横あたりについて体を支えている彼はビクともしない。

きっと妖怪になって、人間とは比べようもない位の腕力になったんだろう。それはずいぶんと前から、生活の端々で感じていた事だけれど、さっき実際に抑え込まれて、身をもって確信した。


思い通りにならないのも嫌じゃない――――いや、やっぱりやだ。


彼の思い通りというのが悔しくて、私は蜘蛛みたいに彼の腰に脚を絡ませて、口付けをしたまま、もっと体を寄せろと態度で示す。さっきまで感じていた脚を開いてしまってる事への焦りとか恥じらいなんて、あっさりどこかへ吹っ飛んでいた。そもそも、既に上半身は開けっ広げになってしまってるわけで、今更何か隠すとかそういう次元になかった。


「ちょっ、なんやねん、はしたない」

「いいから、もっとくっついてよ」


黒いドロドロした感情は、もう胸の奥で燻っているばかりに鎮火されている。それはそうだ。だってもう、私は夏樹と一緒にいるって選択してしまったのだもの。そんな選択肢があるなんて思いもよらなかったけれど、それが許されるならこれ以上なんてない。そりゃ気分も楽になる。


でも多分、それは夏樹も一緒だろう。


さっきまでのおどろおどろしい雰囲気は鳴りを潜めていた。それはきっと、私があっさりと人間やめます宣言をしてしまったからなのだろう。

でも何となくツンケンした態度は変わらない。多分私が他の男ともいっぱい寝たみたいな話をしたからだろうな。浮気どうの言ってたし。そこに関しては、こちらも少々どころではなく罪悪感がある。

別に悪い事をしたわけではないはずなのに――なんせ夏樹は死んだのだ――ものすごく悪い事をした気がしている。なのであえて触れるつもりもない。


「うっさいわ、黙っとけ。こっちのペースでやらせろや」


ごちゃごちゃと文句を垂れつつも、夏樹は私のリクエスト通り体を寄せてくれた。裸の上半身に作務衣越しの夏樹の体温が伝わって思わず満足の笑みを浮かべてしまう。今はもう揺らめいていない茶色っぽい色へと戻った髪を梳くように指に絡めながら、私の方から唇をくっ付けなおす。催促するように口を開けば、ぬるりと彼の舌が入って来た。


尾てい骨の辺りがぞくぞくする。どうしよう、今私、普通に夏樹とキスしてる。


その事実だけでとんでもない幸福感を感じられる。


夏樹の舌は少しだけざりざりとしているけれど、人間のそれと大差ない。猫のあの、かなり刺々しい舌で、自分の咥内を舐められるのを想像すると、正直ちょっと痛そうだから今更ながら安心した。


さっきはこんな風に観察する余裕は皆無だったのだ。


甘えた声が喉から漏れ出てしまう。

ぐちゃぐちゃにされたい。ドロドロにして欲しい。


頭の中が本能でぐずぐずに熔かされていくみたいな気がした。


「夏樹」

「ん?」


ほんの少し、息継ぎに離れた隙間に、彼の名を差し挟む。それに大した意味なんてなくて、でも、優しく返事をしてくれたことは嬉しくて。


発する言葉は何も見つからなかったから、私はやはりもう一度彼の名を呼んで、そのまま再度、自分から夏樹の唇を奪いに行った。

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