「——心未」



立ち尽くす私に芹が「そのビニール袋の中身、若に返しに来たんじゃねーの」と投げ掛けた。



「うん」


「とりあえずそれ返してきたら」



早朝からずっとお供にしていたビニール袋の中には、この前ナズナと飲んだ後、目覚めたら何故か目の前にいた善が肩に掛けてくれていた白いカーディガンを入れていた。

女物だけど。だからビニール袋なのではない。家にコンビニから持ち帰るビニール袋が溢れているから偶然、って私は誰に言い訳しているのだ。


うん、と小さく頷く。



頷いてお勝手を後に、善が戻って行った廊下を追い掛けた。





長く濃い木造の廊下を辿る。左手にはずっと広い庭が続いていて、途中の善の部屋に行き着く。


此処の、善の部屋の前の庭が、私と善が初めて会った場所。



襖は隙間が空いていて、そこに指先を掛けた。



「ぜん、入るよ」


覗くと、奥の敷布団に長い四肢を投げ出した善が「んー…」とどっちつかずな返事を返した。


頭が痛いのか、気持ちが悪いのか。

仰向けだけど腕で目元が隠れていて表情がよくわからない。


一人部屋にしてはだだっ広い和室に入ると、昨晩は此処で飲んでいたのかまだ微かに酒の匂いがしてくらくらする。入ってすぐの左手には予想通りの酒瓶やら缶やらが転がっていて納得。


もう七月だというのに長ズボンを履いているのは左足首から覗く刺青が理由かもしれない。


それを見て思い出すのはあの日会社で聞くことになった、善を語る善の女ともだちの事。



「善、何で酒は男としか飲まないの」


肩の力が抜けて、ふと気になった事を口に出してしまった。


そういえば、男ばかりの酒の席でわーわー飲んで笑う、そういう姿を当たり前として見てきたから善は男も好きなのかもと思っていたのだ。

知らないだけで女の人とも飲んでいるかもだけど…



「…しりたい?」



意外な返事に顔を上げる。


腕から覗く柔らかい声は、ちゃんといつものものだ。



「うん」


「心未ちゃんと逆。ほら、が出ちゃうから」



どこら辺が私と逆なのかわからない。



「人って、絶対素でいられる自分以外の誰かが必要なのよ、…絶対ね。

嫌われるとか好かれるとか、そういう事を考えなくていいって意味での素。長く、生きれば生きるほどそういう瞬間が訪れる。

その核さえあれば後の数十人、数百人って偽り取り繕った外面でも平気。だから」



それは…暗に女ともだちに対する善は素ではなく、一切の外面だと云っているのか。


だから彼女たちとは飲まないと?



「心未ちゃんは、確かにこの家の外の男がキライかもしれないけど、その分偽りが圧倒的に少ないから見ていてアタシと違って綺麗だなーって思うわ。自分にも嘘を吐かないし、周りには素の心未ちゃんを好く人が集まる」



まだ、酒が残っているのかと疑うくらいには急に良いように言われて、驚いた。

何を考えながら話しているのか、話がすり替わった気もするけど私はそんな風に思えたことない。



「…単純に私は嫌いが多いけど…善は好きが多いじゃん。

それってすごく、素敵なことだとおもうよ」


善みたいに上手く伝えられない。



「心未ちゃんのキライが嘘を吐かないでいいように守ってくれてるのよ」



優しい考え方だ。優しくて、かなしい。



何だか、自分が否定し続けた自分が肯定されたようで、

なのに同時に善が自分を否定したようで、胸が苦しい。



それを紛らわすために突っ立っていた私は、どうしてかこちらを向いてくれない善の側に膝をついて正座した。


手の届く場所にもいつまで飲んでいたのか缶ビールが置かれている。

……。



「善が私をどう思っているのかは知らないけど、私はずっと、善と飲める・・・人でいたいよ」


性別は変えられないけど、女として見てもらう代わりにこの先善の『素を見せられない人』を一人増やすくらいなら、女でなくてもいいかもしれない。



へへ、と情けない笑みが溢れて、すする鼻。



側にあった缶ビールを手に取ったらやっぱり中身が入っていたから、口に運んで飲み干した。



善と私は、八つ歳が離れている。

だから、少なくとも八年。それよりもっと長い年数、善のお酒に付き合えない自分がもどかしくて仕方なかった。善は、私には厳しくて、二十歳になるまでそれを許してはくれなかったし実際飲めるようになっても芹みたいに喜んではくれなかった。



飲めるようになっても、結局こうだ。


善を喜ばすようなことはもっと私が考えを尽くして実行しないと手が届かないこと。



息を吸って、口元を拭う。


対して触れもされない私の所為で可哀想なワンピース。でも、おかげで髪を切った時の次に勇気を出せた思い出として残るだろう。

善に心配の表情を浮かばせる靴擦れが私の全てだ。でも、靴擦れはその内治ってしまうから。


善が好き。


でも善は私を好きにはならない。辛いから諦めたいのに、そう簡単にはいかなくて、


あの日毎日通う会社を背景に知らなかった善の事を好きそうに語る私には手の届かない立ち位置の可愛い友人だか彼女だかを見たら、やっぱり一度くらいは女の子として見てほしくなってしまって、柄にもなく足掻いた。


男嫌いを克服したいのも本当。それで善の重荷じゃなくなりたいのも本当。


まだ綺麗事だったその掻き集めた理由の中に「私が善の素を見ていたい」というはっきりした欲が加わって、やっと


今、綺麗事から抜け出せた気がする。


残念ながら、好きは未だ消えてはくれない。私は私以外の女の子を相手にする善を見続けることになる。ただ、私が善の対象になる


「“女”じゃなくても」



不思議そうに私を見上げる善。何を言っているのかわからないだろうな、これは自分に言い聞かせている。



善。好きでごめん。邪魔でごめん。





「……え?」




善は、ゆっくりと上体を起こした。




「アタシ、心未ちゃんのこと女の子として見なかったことないけど」





「……ん?」


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