第12話 青春
○青春
モトキは自室に篭ると何もすることなくボーッと天井を見上げた。
(はあ〜……)
モトキの心中では上級生の飯島愛梨と交わした時間がスローモーションにして流れて行く。
「なんていい香り……」
思い返すだけでも鮮明になる香りにモトキは鼻をヒクヒクさせた。モトキは我に帰ると、焼き芋を触った手に芋のヤニが付いたのを思い出した。意識をこちら側に戻して、手を洗いに洗面室へと下りて行く。モトキが洗面室に近づくと、洗面台から水音が聞こえる。モトキは誰かいるのだろうか……?と、そっと、覗き込んだ。
洗面室には義姉のハルカの姿が見える。
(ね、義姉さん……帰ってたんだ……)
モトキはなぜだかドキンっとする。悪いことをしようと言うわけじゃ無いのに、なぜだか後ろめたい。
(えっと……ど、どうしようか……)
ハルカは洗面室から出ると廊下に立ち止まっているモトキに気づいた。
「モトキくん? どうかした? もしかして、待ってくれてたの? ごめんなさい、私がモタモタしていたから……」
丁寧に頭を下げようとするハルカの体からフワリと何やらいい香りがする。
「い、いい……香り……」
「えっ?」
思わず口に出して言葉にしてしまっていたことにモトキは後になって気づく。
「はっ、あっ、えっと……あ、あの……ね、義姉さん……?」
モトキはシドロモドロニなってアタフタしながら口走る。
「あ、あの……み、みかん……」
「えっ? モトキくん……みかんが食べたいの?」
「えっ!? あっ、い、いや、その……」
モトキは柑橘系の香りをどう表現して良いのか分からない。分からないから酸っぱい果物で分かりやすいものを口にしていた。
ハルカはモトキの様子を心配して覗き込む。モトキの肩にハルカの手が触れる。それと同時にハルカの耳にかけられていた髪がサラサラと流れ落ちる。ハルカの首筋に溜まった生温かい空気を髪の毛が燻らす。
(あっ……や、やっぱり……すっげー、いい匂いだ……)
モトキはこれまでに体験したことのない大人の甘い香りに触れて、つい興奮してしまう。
(や、やばい……)
モトキは照れを隠そうとして顔を真っ赤に染め上げた。
ハルカはモトキの顔色が変わったことを見て、モトキの額に手を当てる。
「モトキくん……みかんが食べたいなんて、風邪の引き始めじゃないの? 大丈夫? 顔も赤いみたいだし……? 熱があるのかなあ?」
「だ、大丈夫です……」
モトキはじっと見つめてくるハルカの眼差しに申し訳なさでいっぱいになる。
「おい、こら、モトキ?」
振り返ると長兄のイツキの姿がそこにあった。ハルカは急いでイツキに言う。
「イツキさん、モトキくん、熱があるのかもです……? みかんが急に食べたいみたいだし。私、今、イツキさんに連絡しようと思ってたところです。帰りに買ってきてくださらないかって……」
ハルカはモトキの額に手を当てながら言う。イツキはハルカの申し入れを聞くと嗜めるようにハルカに話しかけた。
「ハルカ、ここから先は、男の話ってことで……お前さんは、母さんの手伝いに行ってくれないか? 手が足りないらしい」
「で、でも……」
ハルカはハラハラしてモトキのそばから落ち着かない。
「いいから、ほら! 行った、行った、ほい、ほい」
イツキはハルカのお尻を押すようにして台所へと促した。
モトキはバツが悪そうな顔をして佇んでいる。
「さあてな、モトキ〜? みかんを買いに行くとするか?」
「あっ、えっ?」
「みかんが食いたいんだろう?」
「い、いや、べ、べつに……」
「コンビニにするか? それともドラッグストアか?」
「こ、コンビニ……? ドラッグストア……?」
「おう、モトキ、よ〜く聞け? コンビニよりもドラッグストアの方が種類は豊富だぞお〜?」
「はっ、はあ〜っ? み、みかんの話じゃないのかよ……?」
モトキはイツキの魂胆が分からずに戸惑いを見せている。
「お前の気持ちは、よ〜く、分かった、兄さんは。 いまから、連れて行ってやるからな?」
イツキは弟の腕をガッチリと固定する。モトキは完全に固定された腕を引き抜くことができない。
「うっ……ううっ……」
モトキはイツキに連れられてドラッグストアにいた。そこは、女性の制汗剤、コロン、デオドラントが並ぶ陳列棚だった。イツキは楽しそうにその一つ一つを手に取って見せていく。
「シュッツシュッツ」
イツキがお試し用のスプレーを持ち出すたびに、いい香りがモトキの周りに立ち込めた。モトキはその一つ一つの香りを嗅ぎ分ける。
「どうだ? モトキ? 柑橘系ってこんなところか?」
イツキはシトラスの香りを手にする。モトキはその香りが上級生の飯島愛梨と似ていると思った。
イツキは気を良くして、次々とお試しサンプルに手をつける。モトキは一つだけ気になって、自分で手にした香りを試した。
「シュッツシュッツ」
「なんだあ〜? モトキ? それは、柑橘系じゃないぞ〜?」
「えっ?」
「お前、『みかん』って、ハルカに言ったんだろう〜?」
モトキはそもそもあの場面で『みかん』とだけ説明を受けたはずの長兄が、どうしてこの香りの売り場へと自らを誘ったのかすら腑に落ちない。一体、兄は、どうしてモトキが香りに興味を持っていると知ったのだろうか……?
戸惑いを見せるモトキの顔にニヤニヤしながらイツキは楽しそうに言う。
「お前が持ってるその香りは、ハルカのものに近いぞ?」
「えっ? ええっ!?」
モトキは後退り、思わずサンプルの瓶を落としそうになる。
「フフン。いいか、モトキ? 悪いことは言わない、ハルカだけはやめておけ、分かるよな?」
「はあっ!?」
「ハルカには俺しか見えない。お前を男としてハルカが見ることは、1000%ありえない。分かるよな?」
モトキは普段の仲睦まじい二人の生活から長兄の言う言葉の意味が目に有り余るほど分かりすぎた。
「言われなくっても……分かるよ……」
モトキは、そっと、サンプルの瓶を売り場へと戻す。
(ローズの香り……かあ……)
それでもモトキは、自分が気になる香りのことを名称だけは確かめた。イツキはグイッとモトキの腕を掴むと、他の陳列棚の前に弟を連れ込む。そこは、男性用のスキンケア商品を扱うコーナーだった。
「モトキ、お前も男だ。そろそろ肌の手入れも体臭の管理も気になるだろう? 自分が好きな香りを身につけるスマートさも必要なスキルだろう? 俺が買ってやるから、好きなのを選びなさい」
イツキはモトキの腕を放した。モトキはイツキから解放されると、いくつかの制汗剤や整髪料に手を伸ばす。イツキは弟の様子を眺めると、同じ陳列棚の端っこに何やら楽しそうなものを見つけた。
モトキは、男性用の香料にもいろいろとあることを試している。これまで男性用のニオイに何かを感じたことは無かったが、これまでのようにただ汗臭いだけと言うのも何か気が引ける気がする。
「主張するのも嫌だしなあ……」
モトキは香りはせずに消臭にだけ効果がありそうな商品をいくつか選んだ。
ふと、モトキが振り向くと、そばにいた筈のイツキの姿が無かった。キョロキョロとモトキはイツキの姿を目線で探す。モトキの視線が止まった先には、イツキが楽しそうに手招きをしている。
「な、なんだよ……イツキの奴……」
モトキは、手にした商品を一度、棚に戻した。モトキは手ぶらになるとイツキのそばに歩いて行く。モトキはそこへ近づくほどに後退りたくなった。
「待て、モトキ」
イツキは重低音で脅すようにモトキに言う。モトキは金縛りにあったかのようにその場で立ち止まっている。
「イ、イツキ兄……そ、それって……」
「フフフ。そうだ、我が弟よ? 大人たちの世界へようこそ。フフフ」
モトキがイツキに背を向けて逃げ出そうとすると、ドンっと何やら生温かいものにぶつかった。
「イッテエ〜」
モトキが顔を上げると、そこにはサトシが突っ立ていた。イツキはニヤリとサトシに目配せをする。サトシは心得たとばかりにモトキをイツキのそばへと連行する。モトキは逃げ場を失い、死んだような目でイツキのそばに立った。
「フフフ、サトシ、グッジョ〜ブ」
「イエイッ♪」
サトシとイツキはモトキのことなど気にもせずハイタッチを交わしている。
「サトシも要るか? スキン?」
「イツキさん買ってくれるんっすか?」
「俺が一箱買えば、お前らに分けてやるさ」
「おお、マジっすか〜?」
サトシは満更でもない顔をしている。モトキはサトシの方をチラチラと見やる。
「なあ、モトキ? お前は、男のピークが何歳かって、知ってるのか? どうなんだ?」
「はあ? なんだよ、ピークって?」
「あのピークだよ、分かんねえのかよ?」
「う、う〜ん……」
モトキはまだそんなことまで知りたくもなかった。
「フフフ。ちょうどいいから教えてやろう。……17だ」
モトキは唖然として黙ってしまう。サトシはその話題に乗ったように面白おかしく続ける。
「イツキさん、とっくにピークが終わってるじゃないですか?」
「俺か? まあな。とっくに10年オーバーだな」
「クク。それで、ハルカさんたち女性のピークは知ってるんですか?」
「無論だ」
「っで? 満足させられるんですか? ハルカさんだって、まだピークはこれからでしょう?」
モトキは自分が知らない世界の話を頭上で交わされたままポカンっと口を開けている。
「ハハ。未成年の君たちには分かるまいっ」
(うん……俺、まだ知りたくない……)
ますます未知にヒートアップする二人の会話にモトキは聞こえないフリをする。
未成年が二人に成人男性一人が繰り広げる異様な会話に一般の買い物客たちがヒソヒソと通り過ぎて行く。あからさまにスキンコーナーで繰り広げられる恥ずかしい会話にモトキはいたたまれなくなる。
「ちょっとおー、何してるのよー?」
聞き慣れた声の登場にモトキはタラリと冷や汗を流した。
「ちょっと、イツキ兄〜。モトキまで〜。まあ、サトシは分かるけど〜、恥ずかしいからやめてよ〜」
学校帰りのエミリは女性用の商品を物色しようとドラッグストアに寄ったところだった。
「あれ? エリカは?」
「レッスン」
「ああ、またいつものやつか……」
エリカは子役を終えても何かとまだレッスンに通わされている。本人はもうとっくに需要など無いと言い張るのだが、事務所がなかなか諦めさせないらしい。エリカは義務のように通っている。
「エミリ、お前にも持たせてやるからな?」
「えーっ、イツキ兄〜、それって、ドン引きでしょう〜?」
「お前だって、いくつだっけ?」
「はあ〜? 私〜? 16じゃない。イツキ兄、もう忘れたの〜?」
エミリは先週にお祝いをしてもらったばかりだった。
「16と言えばだな……」
「はいはい、それはもう、聞きました〜」
エミリは何度も聞いたその話に閉口する。昔は16歳から女性は結婚できたと言うアレだ。
「私は、いいのよ。それよりも、そこの二人でしょう?」
エミリはサトシとモトキの顔を見比べる。
「サトシは早々に持ってなさいよ。必要になってから買いに行くって言うんじゃ、遅いでしょう?」
「な、なんで、サトシだけなんだよ〜?」
モトキは、自分だけ子供扱いされているようで焦り出す。
「え〜? だあって〜、モトキってば、そう言うの奥手そうじゃな〜い? それに、ヒカルちゃんに手を出すつもりなの〜? 信じられな〜い」
(さ、サトシは……? エリカさんだったら良いわけか……?)
モトキはエミリの言葉にイマイチ納得が出来ないようだ。困惑気味の弟には興味が無さそうなエミリは、イツキの腕をグイッと引っ張る。
「イツキ兄、こんなところで油打ってないで、私にも何か買ってよ〜?」
「わ〜かった、わかったって〜。今日はモトキにみかんを買いに寄っただ〜け〜だ〜って」
「はあ〜? みか〜ん?」
「そう、モトキの奴、風邪の引き始めだって、ハルカが言うんだ」
「ハ、ハルカすわあ〜ん?」
年上好みを公言するサトシが人妻のハルカの話題に反応する。
騒がしくレジへと向かうイツキたち一行から離れて、モトキはまた、女性用のデオドラントを見ていた。
(女性の香り……こんなにあるんだ……)
モトキはポケットに忍ばせた500円玉を手に握る。
「これなら……買えるかなあ〜?」
モトキは、一本のコロンを手にした。それは、ハルカの好きな甘〜いローズの香りだった。
(大人の香り……だったなあ……)
モトキの青春は真っ只中にある。
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