3.トリックオアトリート!

 冷たい風が頬をなで、夜の空気に溶けていった。どこからか夕食の美味しそうな匂いが漂ってくる。

 いつもの亜衣香あいかならクイズ感覚でメニューを挙げていくところだ。けれどとてもそんな気分にはなれなかった。静かな住宅街をただ黙って歩いていく。


 道沿いに並ぶ庭はどこも綺麗に手入れされていた。庭木や花壇のあちこちにカボチャやコウモリ、蜘蛛の巣なんかをモチーフにしたオーナメントが見えた。門灯に照らされ、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がって見える様はどこか幻想的だった。まるで妖精たちがわらささやきながら身を潜めていそうな――。

 そう考えて、亜衣香はむすっと唇を引き結んだ。そんなことを言おうものなら再び溜息が飛んでくるに決まっている。これ以上、いくに子どもっぽいと思われてはたまらない。


「そうか、今日はハロウィンだっけ……」


 耳に届いた小さな声に顔を上げる。趣向を凝らした庭に郁も見入っているようだった。端整な横顔が「お伽噺とぎばなしの世界に迷いこんだようだな」と呟くのを見て、亜衣香はぽかんと口を開けた。


「意外……郁くんもそんなふうに思ったりするんだ」

「感化されたかな、そういうのが好きな子がずっと身近にいたから」


 嫌いじゃないよと苦笑を滲ませる瞳。そこには失望もとがめる色も見当たらなかった。亜衣香の胸にほんのり明かりが灯る。

 亜衣香は「ねえ、」と軽やかに郁の前に出た。

 

「トリックオアトリート!」


 郁はきょとんと足を止めた。どうやら魔法の呪文は唐突すぎたらしい。亜衣香はぷっと頬を膨らませた。


「トリックオアトリート。ハロウィンと言えばこれでしょ?」

「あ、ああ……、お菓子を貰うあれか」

「そうそう」


 満足そうに口角を上げ、上向けた手のひらを差し出した。お祭りごとが好きな日本人にとって軽い調子で使えるこの言葉は、もはや大人子ども関係なく使える合言葉のようなものだろう。

 理解した様子の郁は、それでも眉はひそめたままで鞄や服のポケットを探り出した。

 ややあって出てきたのは薄い長方形のケース――ミントタブレットだった。はいと手渡されたそれを亜衣香はまじまじと観察する。軽く振ればカシャカシャと軽快な音がした。ケース内は余裕のある空間になっているらしい。


「食べかけ?」

「うん、眠気覚まし」

「郁くんが眠気覚ましに食べるって、めちゃくちゃカライやつじゃない……」


 唇を尖らせると郁は微苦笑を浮かべた。

 あらためてパッケージに目を落とした亜衣香は、表記されたスーパーミントの文字を指でなぞった。食べたことも、まして今まで手にしたこともなかったけれど確実に食べられないことだけはわかる。


「このシリーズはオレンジが好き。新商品のミルクミントも気になってるけど」

「ミルクミント……。そういえば最上段に並んでたかな」

「えっ、そっちがよかった! なんでそれにしなかったの?」

「……学校はお菓子を持っていくところだっけ?」


 郁の声がすっと低まった。

 また説教が始まりそうな雰囲気を察し、亜衣香は慌ててその通りだと同調した。「これでいい!」とミントタブレットをポケットにしまいこむ。

 ふ、と郁が小さく息をついた。


「――知ってるよ。亜衣ちゃん、昔からミルクキャンディ好きだもんね」

「……え?」

「でも、だったら、オレンジが好き?」


 優しい瞳が亜衣香の手元を指した。

 頬が、熱い。きっと今、自分の顔は真っ赤になっていることだろう。あたりが暗くて助かった。

 覚えておくよと笑う彼に、亜衣香はうんと頷いた。

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