第二話 until Christmas(2-2)

 たった今、天野先輩がどこにいて、何を考えているかなんて知る由もない私は、本気で頭を抱えたい思いで、ひたすら困惑していた。

 すべては自分のあざとい考えがいけなかったのだということだけはわかっているが、とりあえず、この状況をどう回避すればいいのだろう。

「遠慮をする必要はなくてよ」

「え、遠慮というのとは少し違うんですけど……。あの、平日ですし、下校時間も近いことですし」

「ご安心なさい。すぐに到着しますわ」

 しどろもどろになる私に構うことなく、宝生先輩は決定事項だと言わんばかりに告げる。

 宝生先輩を含め、私の周りには無駄に美女が多いけれど、彼女たちはどういうわけか人の話をちゃんと聞かない率が高い。

 宝生先輩は、彼女を迎えに来たという高級国産車の後部座席のドアを開いて、私に迫る。運転手と思しき壮年の男性は、こちらを振り向きもしなければ、助け舟すら出してくれない。

 個人的な買い物をお願いするのはいくらなんでもと思い直した私が、風紀委員会室を出て、ついそこへ足を向けてしまったことは責められても仕方ないと思う。思うけれど、なんて間が悪いのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 六掛けという言葉に惹かれたのが、元々の原因だった。

 さらに好条件に思えたのは、ホウショウ・カンパニー・リミテッドのショップの一つが、通学路の途中に存在していたということだ。

 だけど、それは逆にとてつもない悪条件だったのだと、今頃になって気づいた。

 レザーショップにしては、やたらと煌びやかな雰囲気の店内で商品を眺めていた私。

 若い男性店員さんはそっぽを向きながら何かをしていて、こちらに目を向けないことに少しだけほっとしてショーケースを見ていたら、不意にプライベートオンリーと金文字で書かれた扉が開いた。

 そうして現れた聖リュンヌの制服を着込んだ女子生徒が、少しだけ目を見開く。

「おう、ご令嬢」

 若い男性店員が、女子生徒こと宝生先輩の名前を呼んだけれど、彼女はそれに答えず、私を凝視する。

 目が合った瞬間、私と宝生先輩は完全に正反対の表情を浮かべたはずだ。

「ふふ、実に好機に現れる方ですわね」

「さ、先ほどは、ありがとうございまし――」

 口角を吊り上げて不敵に笑った宝生先輩は、私の言葉をすべて聞かないうちに続けた。

 曰く、中々気の利いたメニューを出すフレンチレストランがあり、そこはサービスも繊細で非常に行き届いているとのこと。

「財力に物を言わせて、席を空けさせましたわ」

「はあ。それが、私と何か関係が……?」

「ちょうどいい機会です。弥生さん、あなたを連れて行きます」

「え……」

「欲しいものがあるのなら、あとでゆっくりとお部屋で見せて差し上げますわ」

 へ、部屋? 部屋って、一体なんのことですか?

 若い男性店員さんは呆れたようにため息をついている。あの、この人は何を言ってるんですか? とアイコンタクトを送ってみたけれど、無駄だった。

「ですが、それは食事のあとにしましょう」

 店内を軽く見回した宝生先輩は勝手に決めつけて、それから五分も経たないうちに、こんなことになっている。

「社内の温度が下がってしまいます。早くお乗りなさい」

 ピカピカに磨き上げられた車のドアに手をかけた宝生先輩は、その場に立ち尽くし、頑なに動かない私に苛立ったのか、ぴしゃりと鋭い声を浴びせてきた。

 本来なら、「勘弁してくださいよ、会長」などと誤魔化してしまいたいところだが、私の脳裏には、天野先輩が所持するレザーの手袋が鮮明に甦っていた。同時に、宝生先輩に見せられたカタログのことまで思い浮かぶ。

 どうしよう。どうしたらいいの、この場合。

「きゃあっ!?」

 きっぱりとお断りの言葉を口に出せず、曖昧な愛想笑いを浮かべる私の腕が、伸びてきた手にぐいっと引かれた。

 彼女が聖リュンヌの生徒会長ではなかったら。レザーショップのご令嬢ではなかったら。こんなことにならない自信がある。

 黒のストッキングに包まれた脛を蹴飛ばして、無理やり腕を振り切って、全速力で逃げてやるところだ。

 だけど、だけど。

 天野先輩。私、一体どうしたらいいんですか――っ!?


 ***


 たった今、目の前で起こった光景はどうにも信じ難い。

 もしかすると、あれは弥生ではなかったのかもしれない。だけど、そんな淡い気休めはすぐに砕かれることになる。

「あら、アヴリルじゃない。こんなところで何をしてるの?」

 思いがけず、通学路の坂道から下りてきたらしい舞。その声に振り向きかけた私の目に、舞の隣を歩く水無月さんの姿が映った。

「あ、アヴリル先輩。こんにちはぁ」

 そう言って、彼女は呑気な笑みを浮かべたかと思うと、右手の派手な店を一瞥してから私に視線を戻す。そして、悪びれもなく、右を指し示した。

「弥生ちゃんはどうしたんです? 中ですか?」

「中?」

「弥生ちゃん、このお店に寄ってたはずですけど。待ち合わせじゃないんですか?」

 硝子張りの店内には、どう見ても客など一人もいない。

 ここに至って、今しがた見知らぬ女子生徒に連れ去られたのは間違いなく弥生であると確信し、私の頭に急激に血が上る。

「待ち合わせはしていないわ。どういうことなの?」

「え? それなら、どうして……」

「たった今、弥生と思しき女の子が車で連れ去られたの。水無月さん、あなたは何を知っているの?」

「待ちなさい、アヴリル。どういうことか、きちんと順序立てて説明しなさい」

「聞きたいのは私のほうよ」

 私の引きつった面持ちに気づいた舞が、いつになく真面目な表情を浮かべる。

 水無月さんに会うことがあれば、さっき舞から手渡された例の代物について、場合によっては問い質し、場合によってはお礼を言わなくてはと考えていたものの、そんな考えは吹き飛んでいた。

 彼女が指し示した先には、悪趣味にも程があると言える金色の看板があり、“IMPORT LEATHER HOSHO”と記されている。

 要領を得ない会話に苛立ちとも困惑ともつかない感情を持て余しつつ、さっきの状況について、さらに水無月を問い詰めようとしたところで、硝子戸を押し、表に出てきた若い男性店員が訝るようにこちらを見た。

「あんたたち、客か?」

「その質問に答える前に、一つ聞かせてちょうだい。ここで女子高生が拉致されたところを、あなたは目撃したかしら?」

「は? 拉致? ……ああ、ご令嬢のことか」

 男性店員は私の問いかけに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐに合点が行ったように笑い声を上げた。

「ご令嬢とは誰のこと? 弥生とはどういう関係なの?」

「弥生。そういえば、そう呼んでたっけかな。それはそうと、あんたこそ誰だよ」

 無遠慮に私の姿をじろじろと見ながら、男性店員がさも可笑しそうに笑い続ける。

「笑い事ではないわ。早く答えなさい」

「ご令嬢ってのは、恋人募集中のうちの次期女社長のことでな。弥生とやらを恋人にする気みたいだぞ? だが、言われてみれば、確かにあれは拉致紛いだ」

「詳しく説明しなさい!」

 聞き捨てならない台詞に正気を失った私は、レザージャケットを着込んだ男性店員の胸倉を掴み上げる。

「な、何しやがんだ、てめぇ!」

 まさか、私のような女子高生からこんな目に遭わされるとは夢にも思わなかったのだろう。男性店員は驚きと怒りが入り混じった視線でこちらを睨みつける。

 しかし、事情が事情である。私だって引き下がることはできない。

 そんな私のいつにない行動に、こちらも珍しく驚いた様子に舞が、努めて冷静に止めに入ってくる。

「アヴリル、落ち着きなさい。よく言うでしょう? 殺すのはいつでもできるって。お楽しみは、この男から話を聞き出してからでも遅くはないはずよ」

「っ……それも、そうね」

 舞の仲裁を受けて、私はひとまず男性店員の胸倉から手を放すのだった。


 ***


「あの、本当に困ります」

「ここまで来ておいて、往生際の悪い方ですわね」

「いえ、来たくて来たんじゃなくて、宝生先輩が強引に……」

 消え入りそうな声で訴える私の目の前には、見るからに高そうなフレンチレストランの豪奢な扉。

 そこで押し問答をする私と宝生先輩の姿を、店のディレクトールと思しき品のいい初老の男性が、困惑した様子で見つめていた。

 瀟洒しょうしゃな建物の脇、本物のもみの木に絡んだイルミネーション。それはさっきまでの浮き立つような気持ちとは打って変わって、すっかり意気消沈した私を嘲笑うかのように、チカチカと点滅している。

 口を挟まないディレクトールさんには申し訳ないと思うし、宝生先輩に恥を掻かせるような行為も気が進まないけれど、だからと言って、私がここに入るわけにはいかない。うん、絶対に。

 そう思うのなら、車に連れ込まれる前にきちんと断ればよかったのだと言われればそれまでだけど、こうなってしまったものは仕方ない。

 天野先輩、ごめんなさい。ついでに、宝生先輩もごめんなさい。半泣きになりながら、こそこそと踵を返そうとする襟首が掴まれる。

「どこへ行くつもりですの? 弥生さん」

「きゃあっ! ごめんなさい。本当にごめんなさい。だから、お願いします。勘弁してください……!」

「いい加減にしないか、宝生さん!」

 そのときだった。

 地面にしゃがみ込んで耳を塞ぐ私の背後からかけられた声。次いで、伸びてきた手。その腕は、思い切り私の体を引き寄せてくる。

 固く目を閉じていた私の顔は温かくも柔らかい胸元に強く埋められ、そして、ようやく気づく。

 これが懐かしい――つい最近会ったばかりだけど、今は懐かしいとしか言いようがない――天野先輩の胸だということに。

 だけど、どうしてここに天野先輩が?

「弥生、大丈夫?」

 大好きな美声に耳朶を擽られ、その声が心に届いた途端、私の全身からすべての力が抜け落ち、瞳からはぶわっと大粒の涙が零れ落ちた。

 どうしてでもいいや、理由なんか。助けに来てくれたんだ、天野先輩が。それだけが、私の心に温かい何かを溢れさせた。

 彼女の背中に腕を回して必死で縋りつく。私の位置まで腰を落とした天野先輩の温かい腕は、しっかりと私を抱きしめ返してくれる。

「あ、……ア、アヴリル、アヴリルせんぱぃぃぃ……」

 なりふり構わず彼女にしがみつけば、それはそれは不機嫌な声が頭上を越えていく。

「邪魔をしないでくださいます? 先輩方」

「ふざけないでくれるかな。他の子ならいざ知らず、弥生さんは風紀委員会の大事な後輩だと言っただろう。いつも同じ手を使ってるんじゃないよ」

 え? この人、いつも同じ手口を使ってるの? まあ、それもこの際、どうでもいいや。ああ、それより、皐先輩まで来てくれたんですね。

 そのときの私は、絶体絶命の窮地を王子様に救われたお姫様の気分だった。

 だけど、この幸せはそう長くは続かなかった。

 私は只今、人生初と言えるくらい、深く深く反省中だ。あれからすぐに天国から地獄に突き落とされたような、もやもや気分を味わっている。

 クリスマスまで、あと少しだというのに……。


 ***


 嫌味なほどに高級な車で高級なレストランへと連れて来られた私を、宝生先輩から取り返してくれた天野先輩と皐先輩。

 だけど、騒ぎが治まってみれば、案の定とでも言うべきか、二人はとても怒っていた。

「説教は明日にするよ。とにかく、今日は天野に送ってもらいな」

 そう言って、当然のように私を天野先輩に託し、こちらに背を向けた皐先輩は、今度は宝生先輩に向き合って、くどくどと苦言を呈していた。

 だけど、宝生先輩も宝生先輩で言われっ放しではないようで、何事かを言い返している。あの二人、生徒会や風紀委員会以外のプライベートでも交流があるのだろうか。

 刹那、何気なく彼らのほうをぼんやりと眺めていた私の肩が、突然強く引かれた。はっと見上げれば、前を向く天野先輩は無言で大通りへと出ていく。

 平日のおかげですぐに捕まったタクシーに乗り、こうして私たちは現在車中の人となっているのだが。

 あの劇的な救出劇が嘘のように、車内のテンションはものすごく低い。さっきはあんなにきつく抱きしめてくれた天野先輩なのに。

 そっと横顔を窺い見る。整ったその面持ちは微動だにしない。しかも、である。私と彼女の間に、ほんのわずかではあるが隙間が開いている。

 そして、何よりもこの空気だ。これはやっぱり気のせいではない。

 私はこの空気をよく知っている。あのときによく似ているのだ。まだ記憶に新しい、文化祭の出し物の一つであるミスコンでサクラをしたときの氷点下の空気。あまりにも酷似している、この寒々しい雰囲気。

 口を開くことすら憚られた私はこの日も深く俯いて、むしろ、あのとき以上に盛大に落ち込み、しょんぼりと項垂れていた。

 そして、翌朝。

 登校し、朝のミーティングを行うべく風紀委員会室へ入ると、引退したはずの皐先輩が待ち構えていたように応接セットのソファに腰掛け、私を呼びつける。

「君は人が注意をしたそばから勝手なことをして、何を考えてるんだい!? 僕たちが間に合ったからよかったものの、あのままだったら……。どうして、あの店に行ったんだ!」

 そ、それは天野先輩のクリスマスプレゼントを……なんて言えるわけもなく、今回ばかりはなんの反論もできない私は無言で俯いたまま、謹んで叱責を拝聴した。当たり前だ。反論の余地などない。

 怒声は一〇分ほども続き、皐先輩は一度黙ると、ため息混じりに水無月が淹れたものだと思しきお茶に口をつけた。

 普段は穏やかな人が怒ったときほど怖いものはない。そんなことを考えながら、私にとって尤も心配だったことが語られなかったので、恐る恐る尋ねてみる。

「あ、あの、皐先輩。まさかとは思いますが、この件がきっかけで、上手く行ってたはずの合唱コンクールの話し合いが白紙に戻ったり……してません、よね?」

「話し合い?」

 じっとりと迫力のある目つき。やっぱり、この人は紛うことなき、舞先輩の双子の弟だ。

 そんな現実逃避をしてしまうほどの鋭い眼差しでこちらを睨みつける皐先輩の姿を目の当たりにして、私の背筋に冷たいものが流れていく。

「ま、まさか、私のせいで本当に白紙に……」

「なってたとしたら、どう責任を取ってくれるんだい?」

「す、すみません!」

 皐先輩にしては恐ろしく低い声を受けて、膝に頭がつきそうなほど腰を折れば、ひと呼吸置いてから、ふっと吐息で笑う気配がした。

 おずおずと顔を上げれば、今度は思いのほか柔らかい表情を浮かべた皐先輩がそこにいた。

「心配しなくていいよ。僕を甘く見ないでくれるかな? とりあえず、宝生さんもしばらくは大人しくなるだろう」

 そう言って、にやりと意味ありげに笑ってみせる皐先輩。やっぱり、皐先輩と宝生先輩は個人的な知り合いか何かなのだろうか。いや、今は詮索をするのはやめておこう。

 あの話し合いが白紙にならなかったことにせめてもの安堵を感じ、もう一度深々と頭下げて反省の意を示し、しんと静まり返った風紀委員会室の中をとぼとぼと歩き、自席へ戻った。

「もう絶対、あの店に行くんじゃないよ」

「はい」

 念を押すような皐先輩の釘刺しにも、小さく頷く。

「だ、大丈夫? 弥生ちゃん」

 そのとき、いつにない皐先輩の怒り方に蝋人形のように固まった水無月が、怯えつつも、小声で労ってくれた。

 今しがたの皐先輩の怒声で、昨日の出来事のすべてが風紀委員会で周知となった。尤も、春になり、新一年生が入ってくるまでは、私と水無月の二人しか所属していないのだが。

 とはいえ、お互いの事情を知り得るのはいつものこと。合唱コンクールの話し合いの断続も大丈夫だとわかれば、誰に何を思われてもいい。

 ただ一つ問題が残っているとしたら、ここからはもう個人的なことだ。

「でも、よかったよぉ。弥生ちゃんが無事で」

「……」

「だって昨日、本当にすごかったんだよ? アヴリル先輩。とんでもなく怒っちゃって」

「……そっか。でも私、あの人とは駄目になる気がしてきたよ」

「え、どうして?」

 どうしてと言われても、私にもよくわからないのだが。

「実は、昨日……」

 いつになく気が滅入っていた私は、水無月に話を聞いてもらいたいくらい、とても追い詰められた気持ちになってしまっていた。

 昨日、天野先輩は私をタクシーで自宅マンションまで送ってくれた。翌日もお互いに登校しなくてはならないのだし、そこまでは予想の範囲内。だけど、問題はそのあとだったのだ。

 停車したタクシーから、私は彼女も一緒に下りるものだとばかり思っていた。しかし、彼女はそうしなかった。時間はまだ二〇時にもなっていなかったと思う。

「ゆっくりと休みなさい」

「え?」

 短く告げた彼女は、こちらを見ようとはしなかった。

 天野先輩が私に向かって言葉を発したのは、レストランの門前以来だ。

 外に下りた私の前で、無情にも車のドアはバタンと閉じ、前を向いたままの彼女はそのときも私を振り返ることなく、そのまま去ってしまった。

 あんなことは初めてだった。つまり、恋人同士になってからという意味だけれど、少し距離を感じる彼女のその行動は、一人ぼっちにされたような寂しさだけを残し、それは思った以上に私を落ち込ませた。

 抱いてほしいとか、キスをしてほしいとか、そういうことではなくて――いや、少しも期待していなかったと言えば嘘になるが、だけど本質はやっぱりそういうことではなくて。

 なんと言うべきか、天野先輩がとても遠い人に見えたということだ。まるで、知らない他人のように。

 確かに、私の軽率な行動がみんなに迷惑をかけてしまったことは事実で、それは反省しなければいけないことで、だけど、彼女のことをこれほどまでに怒らせてしまったなんて。

 どうすることもできずに、私はタクシーのテールランプを見送ることしかできなかった。

「うーん。それは多分、アヴリル先輩もショックだったからじゃないかなぁ?」

「ショック?」

 思わず聞き返すと、水無月が重いひとことをくれた。

 私が宝生先輩の自家用車に乗せられた場面を天野先輩が見ていたことを聞かされて、再び心が騒ぐ。

 どちらかと言うと、天野先輩は独占欲が強いタイプだということは、以前から身を以て知っている。

 これまで何度もそんなやり取りを繰り返してきたのだし、痛いほどわかっていると言っても過言ではない。

 だけど、いつも彼女はそういう想いを、比較的ストレートにぶつけてくれていたように感じる。

 しかし、今回はなんだか違う。何か、ひどい誤解をさせてしまったのかな。

 折しも今日は金曜日だった。私は一日中うじうじと悩みながら、それでも何とか仕事だけはしっかりと済ませ、携帯電話を手に取ってみる。

 十八時ちょうど。天野先輩からの連絡は、一つも入っていなかった。

 ――それから時は流れて、月曜日の朝。

 この週末は、まったく眠れなかった。はっきり言って、これはもう精神的な疲労だ。

 昨夜はとりあえず寝なくてはと思い、ベッドに入りはしたものの、結局一睡もできず仕舞いだった。

 目の下に黒々と隈を作った私が風紀委員会室の自席にドサッと鞄を置けば、私とは対照的に今日も元気な水無月が、さっそくやって来た。

「おはよう、弥生ちゃん。天野先輩と仲直りはできた?」

「……」

 できてないよ。私の顔色を見れば、そのくらい予想がつくんじゃないかな? 水無月。

 金曜日は、待てど暮らせど彼女は連絡をくれなかった。

 いよいよ焦燥の限界を超えた土曜日の朝、何度も心を奮い立たせて、ようやくかけた電話に出た彼女は不自然なほどに冷静な声ではあったものの、やっぱり、そこにわずかな逡巡があるように思えた。

〈ごめんなさい。今日は用事があるの〉

「あ、そ、そうですか。それならいいんです」

〈……明日なら〉

「う、ううん、いいんです。明日は私も少し予定があって」

〈予定?〉

「忙しいところにごめんなさい。それじゃあ、また今度」

 最後にひと息に言ってしまってから、通話を切るべく、終話ボタンをタップした。

 そのとき、私の目からぽろりと涙が零れてしまった部分は割愛させてもらったが、事の経緯を話せば、水無月も神妙な顔をした。

「それなら、クリスマスに仲直り作戦だよぉ」

「クリスマスって言ったって……」

「前に言われたんでしょう? アヴリル先輩の欲しいものは、弥生ちゃん自身だって。ここはセクシーなサンタコスでもして、自分にリボンをかけちゃって、贈り物ですって迫るとか!」

「そんなことできないよ……」

「でも、明日の祝日はお家に来てくれる約束なんだよね? そのときに、思い切って甘えてみたらどうかなぁ?」

「いくら両親が旅行でいないからって、この分だと、来てくれるかどうかもわかんないもの」

 水無月なりに心配をしてくれていることはわかる。だけど、私はもう何もかもが悪い方向にしか考えられなくなってしまっていた。

 だって。この間のタクシーでの一件を思い出してみても。

 天野先輩は、もう私に触れることさえ嫌になってしまったのかもしれない。本当に、あんなことは初めてだったの。

 そのときのことを思い返すと、鼻の奥がつんと痛い気がした。

 これ以上話をしていると、なんだかまた泣いてしまいそうだ。嫌だ。そんなみっともない姿を、水無月しかいないとはいえ、風紀委員会室で曝して堪るものか。

 ぐっと口を噤んだ私を悲しそうに見ていた水無月が、「サンタコス……」と小さく呟いたけれど、もう答えなかった。

 今日も仕事がある。朝の挨拶運動と、遅刻者や服装のチェック。加えて、学内の見回りもしなくてはならない。

 そのあとは各生徒の失点ポイントの集計もしなければならないし、職員室へ風紀委員会の活動報告書を提出するという任務も残っているのだ。

 気を取り直し、未だ気遣わしげな面持ちを崩さない水無月と連れ立って、校門前へ向かう。

 そのときの私は、まだ何も知らなかった。

 あの日、私の目の前をタクシーで走り去ってから、天野先輩は天野先輩で何度も自分の携帯電話を手に取っては思い悩んでいたことを。

 土曜日の朝、通話が切れた携帯電話を握り締めて、唇を噛んでいたことも。

 そして、私の部屋のクローゼットの中に、私の知らないものがそっと隠されていたなんてことを、このときの私はまったくわかっていなかったのだ。



©️一ノ瀬友香2024.

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