出刃包丁は肌に合わない

 マジでもうダメかもしれない。


「若狭くん……やっぱり、そうなんだね……私より、皆方先輩のことが……」


 僕の全力の失言を受け、月見里さんの目から光が消える。

 静かな口調。けれどそこには刺すような迫力が込められている。当然のことながら、怒っているようだった。

 当たり前だ。あんなの、僕だって怒る自信がある。ていうか僕自身が僕にマジでキレてる。なんなんだよお前いい加減にしてくれよホントに頼むよ。


 「や、月見里さんっ! 誤解なんだっ! 今のは、ちょっと言い間違えちゃっただけで……!」


「そんな変な言い間違えなんてするわけないでしょ!?」


 本当にもうごもっともすぎる。なんなのあの言い間違い? 泣けてくる。


「いや、本当なんだよ! 本当に言い間違えちゃっただけで……僕は月見里さんのことが――」


「――もう、いいよ」


「え?」


 月見里さんの、今日何度目になるか分からない、温度の籠らない声。しかし、今までのものとは一線を画すような、いっそ平坦とも取れる声色。

 まるで、全てがもう終わってしまうかのような、そんな――


「も、もういい……って?」


 僕は恐る恐る、月見里さんに問いかける。その言葉の真意を。できれば、外れて欲しいという期待を込めて。


 だが、


「……して……た……ぬ」


「ええと? ご、ごめん月見里さん、よく聞こえな――」


「若狭くんを殺して私も死ぬ……」


「え」



「若狭くんを殺して私も死ぬぅぅぅ!!!」



「え、ええええええ!?」



 嫌な予感、的中!! 全然嬉しくない!!


 やばい! 早くフォローしないと! 誤解を解かないと! なんか今の月見里さんなら本当にやりかねない凄みがあるッ!!

 僕はみっともなく、追いすがるような気持ちで叫ぶ。


「ちょ、ちょっと待ってよ! 落ち着いて! 話を聞いて――」


「――!!」


 しかし、僕の言葉が終わる前に、彼女は動いた。

 俊敏に、近くの机に置いてある鞄に手を伸ばし、ガサガサと乱暴にまさぐる。中身を全てシェイクするような勢いだ。

 そして、目的の物を見つけたのか、そのまま腕を引き抜いた。


「そ、それは……?」


 月見里さんが鞄から取り出した物、それは木製のナイフのようなものだった。柄も、刃の部分も木に覆われている。おそらく、刃の部分が木製に見えるのは、鞘にしまってあるからだろう。


「若狭くんが……悪いんだよ……こんなに、大好きなのに……!」


 彼女が、鞘に手をかけ、引き抜く。

 薄暗い室内でも輝く、銀色の美しい刀身が露わになる。

 それは、家でもよく見る、最も一般的な形状の刃物。

 しかし、柄が木製なのは、生では初めて見る。テレビや動画なんかでしか見たことのない、プロの板前なんかが使うイメージが強い、それは――


「出刃……包丁……?」


 いや、なんでそんな物騒なもの持ってるの!? そんなもん通学用鞄に入れてちゃダメでしょ!? それはお魚とか切る道具であって、彼氏を斬るのは使用目的に反するでしょ!? 用途はしっかり守ろうよ!!


 月見里さんが鞘を机に置き、出刃包丁を両手で構える。完全にこちらに刺突する構えだ。

 刃渡りは十五センチほどだろうか。

 素人目に見ても、相当な値がすることが分かるほど、綺麗な刃だ。

 きっと、普段の僕なら興味津々にその刃物を鑑賞していただろう。けど、その刃物が今、自分に向けられてるとなっては、流石にそんな悠長なことは言っていられない。


「や、やまなしさんっ!!」


「大丈夫……大丈夫だから……若狭くんを一人にはさせないよ――ちゃんと、若狭くんの後で私もいくから」


「それ、何も大丈夫じゃないよ!?」


「ね……? 一緒に、いこ? 若狭くん」


 月見里さんは聞く耳を持たない。


 まずいまずいまずいまずい。

 刺されたら絶対痛い! いや、僕が刺されるだけならまだマシだ。完全に自分の失言のせいだし。

 だけど、僕を刺した後に月見里さんも死ぬ。よしんば生き残ってくれたとしても月見里さんが警察に捕まってしまう!

 そんなことにさせる訳にはいかないっ! なんとしても止めないと!!


 焦りに駆られ、腹を括る。

 腰を低くして、右足を一歩、後ろに下げた。


 ――月見里さんが攻撃してくる前に、僕から動く。


 一応、僕はこれでも男だ。地力ならこっちに分があるはず。隙さえ突ければ――なんとかなるかもしれない!


「月見里さんっ!!!!」


「っ」


 全力で叫ぶ。

 その声量に気圧されたのか、月見里さんが一瞬たじろいだ、気がした。


 今だ!


 全力で駆け出す――たった数歩の、彼女までの距離を。全力で。


 ――月見里さんを、止めてみせる!!


 そんな想いを胸に滾らせながら、僕は――



 ――僕は、一歩踏み出して、足ぐねってなって、全力で倒れた。



「ぐ、ぐわぁぁぁぁぁぁ!!」


「わ、若狭くん!?!?」


 右足を押さえて蹲る僕に、月見里さんが困惑と心配が混ざった声を上げる。

 彼女から見たら、急に足捻って勝手に転んだわけだからね。そりゃ困惑するよね。何やってんだって感じよね。ホント……何やってんだろ……


「足、捻っちゃったの? だ、大丈夫? 立てる?」


「う、うん……たぶん、大丈夫……」


 正直痛みで半分泣いているし、そこに情けなさも加わってマジ泣きしてるけど。

 たぶん、大怪我ではないはず……


 僕はバレないようにそっと涙を拭い、顔を上げる。

 泣いてるとこなんて月見里さんに見せたくないもん。男の意地ってやつだ。もう手遅れな感じはするけど、それでも張るのが意地ってもんだ。虚しい~


 月見里さんに支えられながら、なんとか立ち上がる。そして、試しに右足で地面を踏みつけてみる。かなり痛いけど、歩くことはできそうだった。よかった……


「本当に大丈夫なの? 保健室行く?」


「ううん、歩けるし、大丈夫だと思う。心配してくれてありがとう」


 こちらを気遣ってくれる優しい月見里さんに、僕は精一杯の笑顔で返す。

 そんな僕の表情を見て、月見里さんは安堵したようだ。


「よ、よかったぁ……若狭くん、急に倒れるんだもん、ビックリしちゃったよ」


「ほんと、ごめん。我ながら情けなすぎるね……」


「ううん、そういうところ、かわいいと思う……よ? ほら、おっちょこちょいって感じで」


 月見里さんが微笑んで、その眩しい笑顔につられて僕も笑顔になってしまう。

 足は痛いけど、なんかいい雰囲気に戻った気がする。これなら、情けなさと痛さを味わった甲斐があったかもしれない。あとは、なんとか落ち着いて話を――


「じゃあ、もう大丈夫そうだし――殺るね?」


「あっ、この流れで? マジ?」


 月見里さんが容赦なく包丁を構え直す。


 あっ、そう……


 もうおわりじゃん。





          ――――――――――――――――





 「ちょっ、ちょっと待って月見里さん! やめて!!」


 包丁を突きつけられた極限状態で、みっともなく命乞いをする。

 まさか、僕の平凡な人生で命乞いなんていう物騒すぎることをする日が来るなんて夢にも思わなかった。

 時々、バトル漫画の主人公になってスタイリッシュに戦ったりだとか、学校がテロリストに占拠されたりだとか、そういう妄想してた時は、「ふんっ、俺をここで殺しておかないと後悔するぜ?」みたいなセリフ吐いてたんだけどね。現実ってやつはそううまくはいかない。


「一緒に死んだらさ、ずぅーーーーっと、一緒だね。永遠に、二人だけだね」


 月見里さんが蕩けたように、頬を染める。まるでそれがどんなことよりも幸せだというように。

 実際、僕も月見里さんと一緒にいられたならこれ以上ない幸せなのだが、でも、できれば現世で一緒にいたい。一緒に歳をとっていき、老人になって、同じ墓に入る。死後一緒にいるのはその時でよくない?


 だから、僕は必死になって命乞いをする。

 月見里さんと一緒にいるため、

 月見里さんを犯罪者にさせないため――!


「それ、けっこう高い包丁じゃない!?」


 僕が注目したのは――月見里さんが手にしている出刃包丁!

 足首が痛くて動けない今、言葉で説得するしかない!


「え? うん、かなり良い包丁……な、はず」


 月見里さんは律儀に答えてくれる。


 よしきた。


「ほらね!? そんな高級な包丁を僕なんかで汚しちゃだめだよ!! もったいないよ!!」


 絶対問題はそこじゃねえだろ。

 そうは思いつつ、正直もう僕にはどうやって説得したらいいかわからない。だから、ほんの僅かな可能性に賭けて、僕は叫ぶ。


「そんな使い方したら、お家の人に怒られるよ!! 料理できなくなっちゃうじゃん!!」


「大丈夫、これ、家にもう何本かあるから……」


 何本かあるんかい。物騒な家だなぁ。


「それに……若狭くんの血は汚くなんてないよ……むしろ、ふふふ」


 彼女は、僕の血を想像しているのか、恍惚とした表情を浮かべる。なんで!?

 そんな、僕の血なんて大した価値ないのに! B型だし! 駅前とかで見かける、献血を呼びかけてる人が持ってる「足りていない血液型一覧」みたいな表見ると、いっつもB型だけ足りてるもんっ


「若狭くん、抵抗しないでね……大好きだから……ずっと一緒にいるためだから……」


 僕の説得は彼女に届かなかったらしい。いや、あんなんで届くわけがないんだけども。

 月見里さんが出刃包丁を持った腕を引く。勢いを付けて、その刃を僕に突き立てるつもりなんだろう。

 とうとうこの時が来てしまった。どうすることもできなかった。


 もう、ダメだ。


 僕は目を瞑る。


 腕を交差させ、形ばかりの防御の姿勢を取り、身を縮こまらせる。


 これから自分に走るであろう、足首以上の痛みを想像して、奥歯を食いしばる。


 ごめん、月見里さん。僕が不甲斐ないばっかりに。


 せめて、僕を殺したあと、後を追うような真似はしないで欲しい。


 そんな、刹那の思考。その直後――



「大好きだよ、若狭くん」



 そんな声が聞こえて、



 ――トスン。



 僕の腹部に、何かがぶつかった。


 これが、刺される感覚……ってやつなのか。


 思っていたより、呆気ない。味気なく、無味無臭。


 痛みは、ない。


 刺されるのって意外と痛くはないのだろうか。それとも、あれか。腕とかを擦りむいて、血がじわりじわりと出てくる時の感覚。「あっ、これ今から痛くなるやつだ!」って分かる時の、猶予期間のようなものだろうか。


 だとすれば、痛みは数秒後に襲ってくるのか。


 長い、長い数秒が経つ。痛みをただ待つのは、恐ろしい。

 恐ろしく長い数秒だった。


 けれど、


 数秒経っても、それどころか、十秒くらい経っても、


「あ、あれ?」


 痛みは、ない。痛みが走らない。

 どういうことなのか。


 僕は恐る恐るまぶたを持ち上げる。

 少しずつ、目の前に起きていることを受け止めるように、徐々に視界が開ける。光が網膜を伝い、脳に現実が叩きつけられる。


 そこで、僕が見たのは、


「~~~~~!」


 僕の腹に全力で包丁を突き立て、ぷるぷる震えている、月見里さんの姿だった。


「――は?」


 月見里さんはめちゃくちゃ力んでいる。見ただけで分かるほど、力んでいる。鼻息を荒くして、目をグルグルさせて、まるで重い扉を必死に押しているかのように、僕の腹に刃を突き立て続けている。それなのに、


「う、ううううう!!! さ、刺さらない~~~~!!!!」


 出刃包丁は、刺さっていなかった。

 僕の腹の、皮一枚すらも切り裂かず、それどころか、その前のYシャツで刃は止まっている。しかも傷一つ付いていない。少し皺になっている、ただそれだけだった。


「え? なに? これ? え?」僕は困惑する。


「ふんにゅううぅぅ~~~~~!!」月見里さんはまだ力んでいる。


 マジでどういうこと? かなりの勢いで刺した……んじゃないの?

 よしんば、まったく勢いを付けていなかったとしても、こんな、抜き身の刃を突き立てているのに、傷の一つすらつかないなんて、そんなのはありえない。ありえないはずだ。


「や、月見里さん!? これ、どういう……っ」


「う、ううう……こ、こうなったら……! もう一回っ!」


 言って、月見里さんは僕の腹部に突き立てていた包丁を一度引くと、今度は僕の上側、首元を目掛けて鋭く突いた。


 マズイ! 今度こそ……!


 そんな思考が走るよりも早く、月見里さんの包丁が僕の頸動脈の辺りを擦る。腕を上げ、防御することすら叶わなかった。


 しかし、


「う、ううう、またダメだぁ……!」


 月見里さんが落胆の声を上げる。


 またしても、僕の体には傷一つ付いてはいなかった。

 首筋を裂いたはずの刃物は、肉も血管も断つことなく、皮膚によって受け止められている。血の一滴すらも出ていない。痛みのひとつすらも、まったくない。


 なんなんだよこれは? どういうことなんだよ?


「……」


「う、うわぁぁぁぁんっ!! 殺せないよぉ!!」


 衝撃でもはや声も出ない僕と対照的に、月見里さんは大粒の涙を流しながら叫ぶ。その手から、出刃包丁が零れ落ちた。

 教室に、からんっ、と乾いた音が響く。


 俯いたまま涙を流している月見里さんを正面に、僕は首筋を、腹を触ってみる。ペタペタと、念入りに。しかし、やはり傷の一つすらない。かすり傷の一つすらも。


 ということは、つまり……? 現実的に考えれば、これは――

 

「お、おもちゃの……包丁とか……?」


 そう結論付けるしかない。ないはずだ。

 月見里さんの持っていた包丁はおもちゃのジョークグッズで、つまりこれは僕を驚かせる為のドッキリだった。そういうことなんじゃないか……?

 しかしその割には、月見里さんの演技はあまりにも迫真だった。本気で殺されると思ったほどに真に迫っていた。本当に演技なら役者になれるんじゃないだろうか。

 でもそれなら、なぜ彼女は未だにわんわんと泣き続けている? ネタばらししてくれてもいいはずだ。ドッキリ大成功! の看板の一つでも持ってきてくれれば、心底安心できるんだけど。


 床に転がっている出刃包丁に手を伸ばす。ステンレスか、鋼か、鉄か、詳しくないから素材はよく分からないけど、持ち上げると重量感がある。近くで見れば見るほど美しい刀身だ。触ることすら躊躇われる程の高級感が漂っている。それに、さっき月見里さんがこの包丁を鞄から取り出した時は、刀身は鞘に収められていた。鞘だ。鞘付きの出刃包丁、あまりに本格的すぎやしないだろうか。

 これが……おもちゃ……?


「月見里さん、これってさ……おもちゃ、なんだよね……? そうだよね?」


 僕は恐る恐る訊ねる。

 月見里さんはまだ啜り泣いていたが、やがて落ち着いてきたのか、


「……ううん」


 否定の言葉を口にしながら、首を横に振った。


「私の家にあった、本物の包丁だよ……」


「ほ、ほんもの……」


「うん……私のお父さん、板前だから、道具にはホントにこだわってて……これも有名な職人に特注で作ってもらったものなんだって……」


「しょくにん……」


 本物。職人。

 そんな言葉が僕の胸に突き刺さる。月見里さんが言うには、本物らしい。


 本物……本物の出刃包丁……


 いや、そんな良い包丁を彼氏刺すのに使うなよ。なんか申し訳ないよ。もっと安いの使って欲しかったよ。

 というか、月見里さんのお父さんって板前だったんだ……


「え、えっと、じゃあ実は……ちゃんと研がれて無かった……とか? めちゃめちゃ刃こぼれしてるとか……?」


 一見、よく研がれているように見える美しい包丁だ。けれど、僕なんて所詮何も知らない素人。素人の目なんてあてになるはずがない。だから、ホントはまったく切れ味がないボロボロ状態なのかもしれない。


「ううん、昨日の夜、ちゃんとお父さんに頼んで研いでもらったから……」


「た、頼んで研いでもらったの……!? 彼氏刺すからって……!?」


「きょ、興味あるから研いでる所を見てみたいって言ったの! さすがにそんなこと言えるわけないよ……!」


 言える訳ないんだ……よかった。そこのとこの常識はあってよかった……家族公認の刃傷沙汰じゃなくてホントによかった……


「じゃ、じゃあさ……なんでこの包丁、僕に刺さらなかったの……? 手品、とか……?」


 正直、もう思い当たる可能性はそれくらいしかない。月見里さんの趣味が手品やらマジックやらで、それがものっすごい凄腕。だから、よく研いである包丁で傷一つ付かなかった。人体切断マジックみたいな? そんな感じで?


「あのね、それはね……」


 月見里さんが意を決したような表情をする。まるで、何か重大なことを口にするような。覚悟が伺える、そんな表情。固く、手を握りこんでいるのが分かる。

 僕は何も言えず、ただ固唾を飲んで見守るしかない。彼女の言葉の続きを。


「実はね……前にも言ったことあるかもしれないんだけど」


「う、うん……!」


「実は、昔から私――」



「――非力なの」



「うん」


「……」


「……」


「……うん?」


 非力なの? え? だから何?


 僕の困惑を他所に、月見里さんが恥ずかしそうに言葉を続ける。


「子供の頃から非力で……いつもいつも重い物持つのとか苦労してね……」


「あ、え?」


「ほら、初めて会った時も、私プリント落としちゃったりしてさ。それを若狭くんに助けて貰って――」


「ちょ、ちょっと待って月見里さん。な、何の話してるの?」


「え? 何って……私が昔から非力って話を……」


「いや、それは分かるけども……! あれ? なんで包丁刺さんないのって話じゃなかった!?」


「うん。だからその話なんだけど」


「え?」


「え?」


 え? 何? 彼女は何を言ってるんだ!?

 「なんで包丁刺さらないの?」って話をしてるのに、「昔から非力だから」って、返答としておかしくない!?


「月見里さん、ちょっと一回落ち着こう……ね?」


「う、うん……? だいぶ落ち着いたけど……?」


「いや、まだ落ち着き足りないよ。一緒に深呼吸しよう」


 二人仲良く深呼吸をする。僕は本日三回目、月見里さんは一度目の深呼吸。ちゃんと脳に酸素を取り込めば、この混乱した状況を打破できるはず、そう信じて。


 一息ついて、僕は改めて質問する。


「で、どうして僕に包丁刺さらなかったの?」


「さっきも言ったけど……私、非力だから……」


「うん、それで?」


「非力だから、刺さらなかったみたい」


「……」


「若狭くん?」


「……いやいや」


 いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。


「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」


 思わず、脳を介さず、心のままに口から言葉が漏れ出てしまった。


 いやいや、と。


 だって、そんなワケなくない???


 何を言ってるんだこの子は? 非力だから包丁が刺さらないし、傷の一つも付かないって言ってんの? マジで? 本気で?


 しかし、当の月見里さんは大マジであるらしい。


「昔から非力で、それがコンプレックスでね……恥ずかしいんだぁ」


 彼女は本気で恥ずかしそうにしている。


 恥ずかしいとかの問題か??


「いや、だってさ、抜き身の包丁だよ? しかもきちんと研いであるんだよねコレ?」


 手に持ったままの包丁を月見里さんに見せつけるように掲げる。

 正直、いつまでも持っていたくはない。危なくて怖いし。


「うん、すごい切れ味だよ。昨日見せてもらったけど、魚とかスッパスパ切れちゃうし」


「うんうん、それで? そのスッパスパ切れちゃう鋭い刃物でさっき僕を刺して無傷だったワケなんだけど? それは?」


「私が非力なばっかりに……」


「いや、どう考えてもおかしいよね!?」


 この際、刺されたことは置いておいて。

 どんだけ非力だったとしても普通かすり傷くらい付くでしょ!? こんなの、赤ちゃんが振ったって危ないでしょ!?


「非力だったばっかりに、若狭くん殺すこともできなくて……ずっと一緒にいたいのに……皆方先輩に取られちゃうくらいなら……でも、刺さらないし……ううううう……」


 月見里さんが再びダークサイドに落ち始める。肩をわなわなと震わせている。それから、しばらくぶつぶつ一人言を呟いていたかと思うと、バッ、と顔を上げた。


「きょ、今日のところは、ゆ、許してあげるっ! でも、次は無いんだからねっ! 浮気したら――今度こそ殺すんだからねっ!!!」


 涙を湛えながら叫ぶと、月見里さんは鞄を持って教室を飛び出して行ってしまう。


「や、月見里さん!! ちょっと待って!! ホント、色々とちょっと待って!!!」


 まだ何も分かってないよ! 結局、非力ってどういうことなの!?


 呼び止める声も虚しく、引戸が勢いよく閉じられる。廊下から走り去る足音が響き、やがて聞こえなくなった。


 残されたのは、出刃包丁を片手に、夕闇に沈む教室で一人途方に暮れる僕だけだった。


 いや、ほんとにどういうことなの……?


 月見里さん、包丁置いてっちゃったし……どうしよ……


 脳内に溢れかえる疑問の海に溺れ、気が付けば何分か経っていた。

 男子生徒が、誰もいない教室で出刃包丁片手に突っ立っている絵面のヤバさに今更気が付く。僕は慌てて刀身に鞘を被せて、鞄の奥底に隠すようにしまう。流石にこの教室に放置しておくわけにはいかないし、月見里さんの家も知らない。一旦、僕の家に持って帰るしかないだろう。


 鞄を肩に掛け、教室のドアを開いた。


 なんだかドッと疲れたな……そもそも、本当だったら月見里さんと二人仲良く教室を出るはずだったのに、どうして僕は今一人寂しく帰路につこうとしているのか。右足も痛いしさ……


 誰か教えて欲しい。マジで。

 

 非力ってなんなの。





          ――――――――――――――――





 一人寂しく帰った、その夜。自宅にて。


「い、いってぇぇ!!」


「あんた何やってんの? バカじゃないの?」


 試しに、授業で配られたプリントで指先をシュッてやってみた。

 めっちゃ痛かったし、普通に血が出た。

 その様子を見ていた母さんが呆れた声を出す。


 僕は、ソファに深々と沈み込みながら、指先からじわじわ溢れてくる血を眺める。僕の体がおかしいわけでは、ない。


「……じゃあ、アレはマジでなんだったの???」


「それはこっちのセリフだわ。自分で指切るとかなんなのあんた? 狂ったか?」


 母さんがソファの後ろから口を出してきた。

 詳しく説明することはできない。というよりも、僕自身すらまだ飲み込めていないんだから、他の人に言ったところで信じてもらえる訳もない。それこそ、狂ったと思われるだけだろう。


「ほっといてよ。必要なことなんだよ」僕は適当に話を切り上げる。


「ほーん、訳わからんね――あっ、そうだ」母さんが思い出したような声を上げる。


「なに?」


「今日、あんたの部屋掃除してたら面白い物見つけたんだけど」


「え? 面白い物? なにそれ?」


 そんなの僕の部屋にあっただろうか。そりゃ年頃の男の子なんだから母親に見られたくない物なんて幾らでもあるけど、面白い物とは?


「……部屋に入るなとは言わないけど、勝手に掃除とかしないでよ」


「るっさいわね。あんたが汚くしてるからよ」


「……」


 まあ、たしかにここ最近掃除サボってたけどさ……だからってさ……


 僕は、ちょっと強めに言ってやろうと意気込んで、ソファから腰を上げる。そして、母さんの方を振り向いて――そこに、見た。


「これよ、これ」


 それは、紙だった。


 一度ぐちゃぐちゃに丸められたものを無理やり伸ばしたのであろう、しわくちゃな紙だった。そして、それには見覚えがある。ありすぎた。


 それは、僕が今朝、ゴミ箱に捨てた原稿用紙で――


 母さんは心底楽しそうな表情だった。バケモンかよってくらい口角がエグイ角度で吊り上がっている。僕も顔が勝手に引き攣って、口角が上がる。

 その状態でしばらく見つめ合う。お互い、同じような表情なのに、その感情はまるで別物だった。


「『ああ、月見里さん。君は僕にとっての太陽――地上に舞い降りた天使――』」


「ウ、ウワァーーーーーーーーー!!!!!」


 母さんによる小説朗読会は、月見里さんに包丁向けられた時より怖かった。マジで死にたい。死にたい死にたい死にたい。


 もう二度と部屋の掃除をサボったりしない。

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クソ雑魚ヤンデレ月見里さん なかな春望 @nakanakananaka

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