ポ エ ム
村上 雅
第1話 悲愴の中の女、小夜香&謎の男、有希登場
季節は未だ冬まま。
年も新しく明け、月もまた更に明日には替わる。
街の歩道には、カサカサと乾いた音をたて、落ち葉たちが北風に誘われるままに乱舞をして見せる。
その中を、厚手のコートを着た女性が顔をマフラーで頬までひたし、目をほそめ、左腕にはバッグを引っ掛け、握りしめる両手袋の中には温かい缶のココアを湯たんぽ代わりに、胸元に抱え足早に歩いている。
彼女の名は
朝、電車を降り、駅から通勤途中に会社が近づくと、偶にではあるが涙が頬をつたって落ちるような時がある。
それは、一年半前まで付き合っていた男性が同じ会社に勤めていて、今も彼は同じこの会社にいる。その彼は、この社の花形営業マンで、特にまわりからも期待の星だと今も噂されている。
彼女は、未だに彼を忘れることができないでいて、もしかすると今日にでも今付き合っているひとと別れて、私の許に戻って来てくれるのでは、と儚い想いが胸を締め付ける。
彼女の勤めるこの会社は、今年七十五歳を迎える現役の社長が建設業を一代で築き上げた所で、彼女は短大を出て二十一の時入社し、彼とは同期となるが、彼の方は大学を五年間通い卒業しての入社なので歳は三才年上となる。
ふたりは、同期ということもあり、何かと同期の仲間たちとの飲み会やピクニックにキャンプ等というイベントで顔を会わせる中、二年目のクリスマス前のパーティーで彼に”僕の恋人となって、付き合って欲しい”と告白されたのが切っ掛けで、四年近くをふたりは幸せに過ごしたのであるが……しかし、彼女にとって永遠に続くと思われた蜜のように甘い幸せの時は、彼女の意思とは関係なく突然やって来て、彼女の視るものすべては色をなくし、モノトーンの世界に換え、その日から彼女から笑いというものさえも失くして仕舞った。
彼女は、人でギュウギュウに詰ったエレベーターに乗り八階で降り、この階の奥にあるロッカールームに向かったが、彼女のロッカーの扉には”早くこの世から消えて無くなれ。この能面女”とルージュで書かれた落書きがあった。
それを見ても彼女の顔には、あまり驚きの色はなく、それより”もういい加減にして欲しい”と云ったような悲痛な表情が強く感じられ、無表情にそれを見る顔には、すこし
彼女の目の前にある言葉は毎回違うが、二ヶ月程前から”アンタなんか暗い顔しているから彼に嫌われるんだ”に始まり、今回で五度目になる。
このことを他の女子の同僚たちも見て知ってはいるが、皆は書いただろうと思い浮かぶ人のことを恐れて口を
小夜香にしても、このことには余り
しかし、彼女の思いとは裏腹に勝手に涙が頬をつたう。
そして、彼女は扉の落書きを、バッグからティッシュペーパーを取り出し拭き取っていると、その時だった。立ち並ぶロッカーのある、この部屋の入り口の方、角の蔭から、彼女のそんな姿を見ている者がいた。
小夜香も、その視線を背中に感じ、そこに目を向けた。だが、そこには誰の姿も見得はしない。
「だれ?……そこに誰か、居るのですか?」
と消え入りそうな声で呟き。視線があった所に恐る恐る近付いてみたが、やはりそこには誰もいなかった。彼女が、背中に視線を感じるのは、この日が初めてではなかった。
その視線は、つい最近からのことで、彼女が商店街を歩いている時や会社の通勤、この会社の中でも感じるものであった。小夜香は、制服の黒い膝丈のスカートに白いブラウス、その上から薄ピンクの地に緑の格子柄の入ったチョッキに、更にその上から淡いグリーンのニットのカーデガンを着て、彼女の職場である総務課に向かった。
そして彼女は、この課の課長席に近い自分のデスクに就き、据え置き型のディスプレーの電源ボタンを押して、暫くしてピピッと音がし、PCが起動をしたのを知らせた後、ディスプレーの画面がいつもの
「エッ! な、なに?……」
小夜香は、画面に顔を近づけ、何だろうと、マウスでそのウインドウを二度クリックした。
すると、画面はパーティークラッカーが弾けたように紙吹雪を撒き散らしながら”ポエム”という文字を大きく表示した後、小さくなっていきながらも、更に七色の霧のようなものが立ち込めてきて、その中に沢山の言葉が浮かび上がってきた。
そして、その文字は詩なのか、手紙なのか……それに、これって誰が送って着たものなのかも思い付かないままに、小夜香はその文面を読んだ。
その内容とは次の通りだ。
ポエム
今宵、星の煌めく頃にこの店はオープンし、貴女様のお越しを待って居ります。
この店は、貴女様の欲しがる物で溢れておりますが、お店の主と致しまして、お
今、小夜香様が欲しいとされる言葉達で、この店は溢れております。
それは、ご自分自身にさえ心を閉ざした方には、決してこの店を探し出すことは出来ないでしょう。
ですから小夜香様、この店に来ていただく為にも、心の扉を少しでも開けて頂けると、言葉達もきっと貴女様の心の中に沁みいることでしょう。
この店には、貴女様が失くしてしまった物でさえ、拾い集め、小夜香様のお越しを待って居ります。
もしも、
貴女様のご意思が、此処へと誘うチケットで御座います。
此処へ来られる時は、色とりどりの霧がエスコートを致しまして、貴女様は唯その中で聴こえるオルゴールの音のなる方へと向って頂くだけです。
あともうひとつ、老婆心ながら私からのご忠告です。
一度、霧の中に身を浸したので有れば、くれぐれも心を変える事の無き様に、霧の外は
その森は、貴女様の小さい時に見たご両親の涙に、先生に怒られた時の思いにその他諸々で、つい最近では彼氏に去られたものまで様々で、
お気を付け下さいませ。
しかしご安心を、私共は、貴女様は迷う事無く此方へ来て頂けるものと信じております。
今宵、空に星が煌めき、夜の彼方に七色の帳が下りたら迷わず御越しく下さいませ。
小夜香様、貴女様は、だだ懐かしき調べのオルゴールの音に、身を委ねて頂くだけ……
小夜香は、読みながら心を暖めて貰った様な心持になったが、何故だろう・、っと首を傾げた。
題目は”ポエム”とあるのに、詩なのか? 小夜香には招待状にも読み取れるが、内容がまるで奇想奇天烈で掴み得なかった。夢の中のことを言っているのだろうか? それに、これはEメールで何処からか送られて着たものなのか。それとも、誰かが私のいない内に、このPCに打ち込んだ文面なのだろうか……彼女の中で、謎は深まる。
小夜香は、ディスプレーを見ていた。その彼女の耳にオルゴールのような曲を奏でる音が聞こえてきた。始業の合図の知らせだ。天井にはめ込んだスピーカーから、それは鳴っていた。その合図を待っていたかのように、小夜香の目の前のデスクの課長が、彼女に手招きをしながら呼び出し、いつもの
小夜香は、入社以来この課の仕事である社長の一切合財のことまでもしていたが、特にある一部を彼女は任せられていた。本来ならば、それ等は秘書の仕事なのだろうが、無駄なものが嫌いで実務主義の社長には、女性の秘書がいない。
それで、ペーパーワークや、特にこのようなスピーチ用の原稿等の清書はこの課にまわされていて、小夜香の入社三年目の
それで、社長は仕方ないがこの話はなかったことに、と諦めて仕舞った。
「アラ、小夜香先輩、今日も社長の大事なお仕事を
声を掛けてきたのは、二年ほど前に中途入社した専務の娘で名を
彼女の言葉には、小夜香を先輩として
小夜香は、いつものように目線を玲子に向けながら、手には社長からの原稿の枚数を数えながら、ただかるく会釈した。
玲子は、そんな小夜香の態度、いつもと変わらずな表情が気に入らなく、
どうして彼女は、特に小夜香に対してこのように明らような態度を
玲子は、京平の前では猫を被り、常に彼の気に入られるように、と京平の至る処に気を使い、彼の着ている服や小物に至ってまで贈ってあげ、センスのいい私がもっと高級な男にしてあげる、と彼女は猫を被りながらも、彼には猫可愛がりな程の愛情を注いでいる。しかし、京平にいたっても、彼女と一年と半を数える中で付き合って来て、どんなに
それが
人を愛す。特に愛しいひとを、繋ぎ止めて
その点に措いて、もうひとりの小夜香はと言うと、多少単調だったのかも知れない。京平の傍にいて、彼女は彼が何を言っても常に笑みを絶やさず、彼が傍にいて、彼が幸せだと言う言葉に、私も幸せと思っていたから、彼にとってその頃の小夜香の存在は、ただ傍にいてくれる空気のようなものになっていた感は否めない。
今、玲子と付き合ってからの彼の小夜香への想いは、自分の本当の母親よりも居心地の好い居場所だったんだ、と今更ながらな思いがしてくる。それが、この間もお洒落なイタリアン・レストランでの食事で、玲子がいつもの如く自分へのお世話過ぎる程の接し方をして、フォークの使い方に皿の執る順はこういう風にとか、彼にとっては不必要な
彼のその言葉は吐息のような淡い、微かなものではあったが、席を一緒にしていた玲子の耳に、十分過ぎるほどの深く身を切るナイフのような刃となって、彼女の心を傷つけた。
玲子は、京平と付き合うようになって、彼のためにとテレビに出ているカリスマシェフの開いている料理学校にも通い。一通り一般の家庭料理から高級そうなフランス料理に至るまで作れるのだが、クリームシチュウやオムライスといった
玲子のように意思が常に表に出て、自分の理性さえコントロールも効かない性格というのは攻撃するには勝るが、護りとなると苦手で、京平のように愛するひとを自分の許に繋ぎ止めたい。しかし、それを如何してよいのか判らずに、彼女の今ある自分の置かれている逆境を招いたのは小夜香という女がいるから、と攻撃性の女は、小夜香という存在にターゲットをむけてしまい、何らかのアクションに至ってしまっているのだろう。玲子は、生まれ付いた己の
そんな彼女が、ギリギリと
小夜香が、課長の田山の許に行ってみると、田山は手元に持った社長の手書きの原稿を広げ、彼女に
「いやー、社長の字が達筆すぎて、凡人の私には何て読むのか判りずらくてねえ。アッ、そうそう、この字……この字は何ていう字なんだろうねえ。いつも社長の文面を眺めている小夜香君なら解るんだろうねえ……」
田山は、小夜香の肩越しの向こうにいる玲子の方をチラチラ様子を
「アッ、小夜香君、もういいよ……」
更に、声を押し殺して小夜香の目を見て喋ったのが。
「悪いねえ……小夜香君、どうして君にだけ生島君は、特に当たるのかは知らないのだけれど、また何か
それから小夜香は、その仕事に取り掛かりランチタイムを1時間ずらしてやり遂げ、社長の机の上に彼女がアレンジし直した原稿を直接小夜香自身で持って行き、その後、眺めの好い20階の多目的スペースの隅にあるベンチに腰掛けて、持参していたお弁当を食べた。
彼女のランチボックスは、とても小さい。一年前までは普通に女の子の持つ弁当箱の大きさはあったが、京平が玲子に奪われ、その失意の余り食欲もなくなってしまった。それかの彼女の帰りの弁当箱の中には、残りものがあるようになった。それではもったいないという思いから今はおかずとご飯の入れもの、セパレートタイプのお弁当箱の片方だけのひとつに、ご飯とおかずを詰めたものを彼女は時間を掛けて食べていた。
何処を見る訳でもなく、目の前に広がる大パノラマの眺望を、彼女は唯ぼんやりとそこに目をやり食べていたが、そんな彼女の耳元にクスクスと笑う声がした。
小夜香は、弁当箱の大きさと合った小さな箸を、口にしながら笑う声の方に目を向けると、そこには部外者なのか、それともこの社に誰かを訪ねてきた人なのか、この会社には似つかわしくない格好の黒のジャケットと中には同じく黒いタートルネックを着、ズボンさえも黒の若い男が、小夜香の腰掛ける長いベンチの向こう端に座り、背を前に
小夜香は、
彼女には、疑問に思えた。彼は、何をしにこの会社を訪れたのか? 彼を見ると、性別も男性かそれとも女性なのか曖昧な感じだ。なにより歳が若いせいなのだろうか、どう見ても十八才くらいでまだ高校生なのでは? とも思わせる。その子が会社見学にきて独り
彼は、唯ニコニコして笑っていたが、小夜香の心の内を知ってか、彼女の疑問に答えた。
「嫌だなあ、僕だよ……ぼく。よくこの建物内であっている……ホラッ、僕だよ。アッ!、未だ僕は君に、名前を言ってなかったよね。僕の名前は、
小夜香は、彼の目、瞳を見ているうちに、脳裏に何か小さな閃光たちがパチパチと弾け出していった。一つひとつのスパークする度の刹那、小夜香は彼と繋がる記憶を呼び戻した。
彼と会うのは、今日が初めてではない。『彼は、エレベータ脇で私を見つめ、自分と眼が合うと決まって片手を上げて”ハーイ、元気?”と合図をしたり、親指を立ててグッドのサインを送ってくれたりしていた。それに、ふたりが今いるこのフロアーのこのベンチでも彼には合図を送られていた』
「クッ、ククク、それに……もう、嫌だなあ。僕は、これでも歳は23で、この会社の設計デザイン部の方から、是非来て欲しいと
「エッ! 設計部? ふうーん、それで貴方は、ネクタイなんかしていないんですね」
この会社では、設計部には他社に知られたくない機密事項等の情報が多々あって、小夜香もその部署には呼ばれない限り、足を踏み入れることは出来ない。その上その部署は、この社では唯一のフレックス制が採られている。それは、この部署だけの自由に柔軟な独創性が発揮できるように、と他社にはないお客様が望むものを造るというのが、社長の口癖だったから、それがこの会社の社風となっていたからだ。
「アッ、まっ、まあね。それより、毎回笑っちゃうけど、なんだろうね……それ……それ、お弁当箱? なんだか、ウサギさんのお弁当って感じだね」
「私は、これでもやっとの思いで食べているんですから、気にしないで下さい。それより貴方こそ、ナンパをしたいのなら、私なんか相手にしないで、貴方に合った他の若い娘が、この会社には沢山いるはずだわ」
「なに言っているの……この会社では、君が一番可愛いよ。い、嫌。僕の見立てでは、この世界で一番君が可愛いよ」
「もう、からかわないで下さい。だって、私には誰も話し掛けて来てはくれない……今では、あんなに仲のよかった同期の人たちさえも……」
「いいや、それは違うよ。みんなは、君に声を掛け続けているけど、君の心が常にそこにはないから、みんなの声も届かない……聴こえないんだよ。君は、いつしか自分の周りにシールドのようなものを作って、まわりの声も自分の声さえも遮断して仕舞ったんだよ」
「やめて下さい。なにを、私のことを、何ひとつ分からない
「いいえ……菊川小夜香さん、何度も否定の言葉を言って悪いけど、僕には君のことをすべて知っているし、君が気付いていないことだって知っているんだよ」
「嘘よ……私の何を知っている、というの」
「ウーン? そうだなぁ……アッ! そうそう君がね。本当は世界で一番可愛いってこと」
小夜香は、その言葉を聞いて、唇を強く噛んでいるのか、小刻みに震わせ目に涙さえ溢れさせ、その雫はひとすじの線となり頬をすべり堕ちた。
「アッ! あれあれ? 僕は、何もそんなつもりで言った訳じゃあないのに……他の女の子なら悦んでくれるか、受け入れられないのなら、逆に笑ってくれるのになあ。ねえ、って小夜香さん……ごめんなさい。僕は、何も君に悪気があって言ったんじゃあないよ。ねえ……?!」
何を言っても聞く耳を持たずに、ただ無言で涙を流している小夜香を目の前にして、どうすればいいのか分からず、有希も泣きそうな顔で彼女を見守った。
そんな空気を感じたのか、小夜香は有希の顔を潤んだままの目で見つめ、やっと言葉を返してきた。
「アッ! 夢野……有希さん? ごめんなさい。私は、貴方の言葉に怒って、涙が出た訳ではねいわ。私は、ただ……有希さんの言ったことに、何故か懐かしさに昔を思い出してしまって、勝手に涙が出っちゃたの。有希さん、本当に私の方こそ、ごめんなさい」
「アッ!……エッ? 昔を思い出したのか。嗚呼、よかった。だって、僕は女の子なんか泣かしたことなんてないし、嫌な想いさせるのだって、僕の本意ではないし。でも、本当によかった……アッ! そうだ。小夜香さん、君が僕にごめんなさいって謝るってことは、この世の
小夜香は、有希の言っていることが上手く飲み込めなくて困って眉間を狭め、彼が次に何を言うのかを待った。有希の方はというと、何かを
「あのう……あのね。小夜香さん。僕は、一言『許す』っていいたいんだけどね……でもね、それには君が何かを僕にしてくれないといけないから、だから……小夜香さん。笑って! 僕に、君のその世界で一番のとびっきりの笑顔を見せてよ。この僕に……ねっ!」
小夜香は、彼からの言葉に返事を失い。『どうして今のわたしが、どうやって笑顔を作ればいいの? 笑い方も忘れた今の私に……どうして』と、より表情を硬くして、内面はフリーズの模様だ。
その顔を見て、有希は、ニヤリと笑みを作り。
「やっぱりねえ……そうなると僕は思っていたよ。だからねっ! だから、聡明な僕は、君がその問い掛けに困るだろうと考え、今の小夜香さんでも応えてくれるだろうと思える次のことだって、用意して措いたからね。やさしい僕、フェミニストの僕ならではのことではあるよね!?」
有希は、小夜香に向けて歯を見せ、いつもやっているグッドの決めポーズをとって見せた。
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