醒めない夢を貴方に

我愛你

醒めない夢を貴方に

 高二の夏。いつも通りの日だった。朝日が差し込む電車の椅子に腰を掛け本を開く。そこに塵芥も入る隙間はない。ただの日常だった。君が話しかけてくるまでは。

「良いの読んでるね」

 感嘆が驚きを通り越した。影を吸い込む様な艶やかな髪、紙を当てたら切れてしまいそうな肌、光を浴び鋭く輝く瞳は僕の心を見つめていた。

「私好きだよこの本。」

 席の隣に座った彼女の整った短めの髪から柑橘の香りがした。

「今何処らへん?」

 止まっていた秒針が進み出す。

「これ二週目なんだ、なんか一回読んだだけじゃわかんなくてさ」

 この小説を初めて読んだのは高一の冬だった。理解できる様で、わからない、そんな片想いの様な距離感が好きだった。読みなおそうと思ったのは、人の性だろうか。魅力的な物を見つけるとそれを手に取らずにはいられない。それを知りたくなってしまう。

「いいね、私あんま本は読み直さないんだけど、この本はいつか読み直す気がしてる」

「いつか?」

「いつか。そういつか、けどそれは今じゃない。もう少し先のこと。今じゃ前の私と差異が少なすぎるかな。」

 不思議な話し方をする人だと思った。けれどそれが心地が良かった。生まれて初めて地面に立っているかの様な、今までは片足立ちしてたんじゃないかってくらい、僕の心の凹凸に馴染む言葉で、彼女のことを知りたいと思った。

「名前は…」

 唇に柔らかい物体が当たる。近すぎて良く見えないがそれが、彼女の人差し指であることは明白だった。

「秘密。この時間にこの電車に乗る。 これから毎日ね。それさえ知れば充分。そっちの方が夢みたいでいいでしょう」

 透き通る様な瞳でじっと僕だけを。それを断ることは出来なかった。掌から砂が溢れてもそこに大事な物が残っていればそれで良かった。

 それから僕たちは同じ時間の同じ電車に毎日乗った。飽きるほど話しても話題は尽きなかった。最近読んだ本の話、今ハマってる音楽の話、彼女から勉強の話が出た時は、浮世離れした彼女も一人の高校生なのだと少しホッとしたのを覚えてる。制服を調べれば彼女の高校もわかったと思うが、詮索はしなかった。彼女の神秘を暴きたくなかった。土日には二人で、遊びに行った。映画館、カラオケ、ボーリング、ショッピングモール、古本屋、街は刺激に満ちていた。けど僕が一番楽しみにしてたのは彼女の私服だった。週に二日彼女の着る色とりどりの服が僕の鈍い灰色に染色された日々を鮮やかにしてくれた。

「私には勇気がないのかも」

 マフラーで武装した彼女がそう呟く。いきなり電車で話しかける様な人間がそんなこと言うのかと驚いた。勇気か。

「君は勇気をどう捉えてるの?」

「夢を叶える覚悟」

 相も変わらず彼女の話す内容は良くわからない。けれど半年近く殆ど毎日話していてわかった事がある。彼女はよく夢という表現を使う。

「夢」名前も知らない女の子と毎日同じ電車に乗ることを僕には証明はできない。それはとても不安定で夢そのものの様に思えた。彼女の瞳は今がどう見えてるのだろうか?また知りたい事が一つ増えた。

 高三の夏。受験を意識して電車内でも勉強する事が増えた。現実から切り離されていた彼女との時間にヒビが入る。酷く空想的なものと現実は同居できないのだろうか。土日も遊ぶ事が少なくなった。話す内容も尽きてきた。けれど彼女と過ごす時間は好きだったし、心地良かった。

 夏休み、彼女と一度も会わなかった。僕は彼女の連絡先を何一つ知らない、会おうにも約束を取り付ける事ができない。彼女の制止を振り切ってでも断固として名前を聞いておけば何か変わっただろうか。だとしたらここまで長く関係は続かなかっただろうか。それでもこの時間を過ごすよりはずっと楽なんじゃないかとそう思えた。

 夏休み明けに久しぶりに彼女と会った。いつもと同じ時間の同じ電車で。少しいつもより気持ちが昂る。

「久しぶり」

僕の挨拶を彼女は会釈で返した。そのまま僕の隣へと座る。初めてだったと思う。彼女が僕の挨拶を声にも出さずに返したのは。それに彼女は明らかに不機嫌そうな表情をしていた。動揺を隠す為に僕は視線を英単語帳に戻す。夏休みに一日も会わなかったのが不味かったのだろうか。頭は一種の錯乱状態に陥り、まともな思考をすることさえ叶わない。すると彼女が頭を僕の肩に乗せた。その行為は僕の頭をより一層混乱させる。

「私貴方のこと好きみたい」

 ずるい、ずるいよ貴方が引いた一つの線はこの空間を神秘的にするけれど、その代償に不安定にもする。触ったらすぐに壊れる霜の様に。僕はそれが怖くてこの線を越えられなかったのに、貴方はそこには何も無いかのように、簡単にその言葉を。

「会話って行為が好きなの。人と人が繋がる最小単位、それが絡みあって世界を形作ってる。許されるならずっと話していたい。けど私は昔から一人だった。私が話す内容を誰も求めてなかった。こんなにも悲しい事はないじゃ無い。ずっと私の片想いなのよ。貴方に名前を教えなかったのも怖かったの。いつかこの人も離れてしまうんじゃないかって。いつかそんな事が起きても夢だったと思える様に夢みたいなことをしたのよ。今思えば馬鹿みたいな事だけどね。ただ貴方は私の話にとことん付き合ってくれた。気づけば貴方と話す時間が一番楽しかった。けど夏休みずっと会えなくて怖くなったの。いつか貴方が急にいなくなっちゃうんじゃないかって、その別れの形がどうであれきっと今よりもずっと辛いだろうなって。これ以上貴方と一緒にいたらもういつか来る別れに耐えられない」

 彼女の眼から透明な液体が溢れる。

「私はこの夢から醒める」

 電車のドアが開く。柔らかく歪んだ視界に映る彼女は世界の誰よりも綺麗で切なかった。

「これが私の最初で最後のプレゼント。バイバイ私の初恋の人」

 そう言って彼女は僕の頬に優しく唇をつけた。けれどそれは酷く冷たくて、寂しかった。電車から彼女は出ていってしまう。だめだ、だめなんだ、また彼女に線を引かれる。

「まって!」

 電車から飛び出て彼女を呼び止める。たった一言伝えればいい。それでこの時間を夢なんかにさせなくできる。息を吸うと唇が緊張で震えてるのがわかる。上手く声を紡げる様にゆっくりとゆっくりと空気を吐き出して。

「僕の名前は…」


 夢から醒めると隣には僕の腕の中でずっと夢を見ている君が居た。

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