第一唱 師妹邂逅篇

一弾目 丑三つ時の邂逅

(ハァハァハァ……っ、な、何でこうなるのさっ!)


 十メートルはあるであろう巨大な本棚に支配された薄暗い空間の中、少女の走る足音と荒い息遣いが響く。


 ――国立晶術研究都市第八区中央図書館、その地下二階。


 複雑に通路が入り組んだ館内はまるで巨大迷路のようで、自分の位置と方角とを常に意識していないとたちまち迷ってしまうことだろう。事実、今まさに一人の少女が窮地きゅうちおちいっていた。


(……あれ? ここはさっきも通ったような……ああもうっ、どうしてこんな造りになってるのさぁ!)


 少女の押し殺した声と怒りの矛先は、当図書館と顔も知らぬその設計士へと向けられる。


 とはいえ何事にも理由があるわけで。


 この一見無意味に思える複雑な構造でさえ、明確な意図と戦略のもと設計されているのだ。そしてそれは、今この瞬間ときのためのものであると言っても過言でなかった。


「――いくら逃げても無駄だよ。いい加減大人しく降参したらどうだい?」


 男の低い声に続いて、ハンディライトの光が暗闇を踊るように走る。


(ど、何処どこかに隠れないと……)


 少女は足を止めて素早く辺りを見回すと、三列隣の本棚の影に身を隠した。息を殺し、側板に背中をぴたりと貼り付けるようにして立つ。


(……っ)


 ごくりと硬い唾を呑み込み、右脇に抱えた一冊の分厚い黒本をぎゅっと抱き締めた。その時だ。


「見つけたぞ! おい、そこに――」


 白い光輪が本棚を照らして、


「……いない、か。確かに気配を感じたんだがなあ」


 そこに少女の姿はなかった。


(……あ、危なぁ)


 間一髪。光がくうを切る直前の僅かコンマ数秒の間に、少女はギリギリのところで別の列へと移動したのであった。


「だがまあ建物の中にはいるだろうし、とりあえず上の階でも探してみるとするか……」


 自分のあごを二度三度撫でた男はきびすを返し、地下一階へと続く階段に向かって歩き出した。やがて男の靴音が遠ざかってゆくと、徐々に少女の呼吸も冷静さを取り戻してゆく。


「……ふぅ」


 少女は唇の隙間から薄く息を吐いてから、足音を立てぬよう慎重に、それでいて俊敏に動いてその場を離れようとして――


 ガタッ……、ドサドサドサッ!


 矢先、本棚に肩をぶつけてしまい、やや飛び出ていた本が衝撃によって四冊ほど落下した。挙句運悪くその全てが少女の脳天に直撃する。


「いっっったぁぁ……っ!」


 堪らず大きな声を上げた少女は、大切に抱えていた黒本を床に落としてしまった。しかしそれに構う間もなく、


「そこにいるのか!」


 悲鳴に気付いた男、この図書館の警備員が慌てて戻って来た。


 そして到頭とうとう、彼の持つハンディライトの明かりが、両の手で自身の頭の天辺を押さえてうずくまる少女を捕らえた。


「その制服は……まさか君、の生徒か!」

「……っ!」


 そう、少女が身につけている特徴的な黒色のローブと装飾がなされたチェック柄のスカートは、彼女が通うの制服である。


「まさかねぇ……晶専生がねぇ……」


 警備員はペンライト型の金属デバイスを舐めるように上下に動かして少女の容姿を確認するも、少女はフードを目深まぶかに被っており、更には周囲の暗さも手伝ってその顔は全く見えない。


「あのねぇ……君、分かっているのかい? こんな時間に、しかもりにってに忍び込むなんて重大な規則違反だよ。大体、最近はのおかげで物騒なんだから学生の夜の独り歩きは危険……って、ちょ、ちょっと待ちなさい!」


 偉そうに腰に手を当てて説教めいたことを言う男の隙をつき、少女は床に落ちている本を一冊拾って逃走した。どこに繋がるとも知らない長い長い通路を我武者らに走る。


(ああもうっ、ここが銃闘禁止領域ノン・バレットエリアでさえなきゃ……!)


 自分の左人差し指を見つめて内心で愚痴を漏らす少女。眉根にしわを寄せて下唇を噛み、再び視線を前方に戻す。


 逃げ続ける少女と、それを追いかける男性警備員。


「止まりなさい! 素直に従うんなら少しは罰則を軽くしてやらんことも――」

「……」

「こら、黙って加速するんじゃない! いいのかい、このままだと停学処分……もしくはそれ以上の罰を受けることになってしまうよ?」


 警備員はどうにか説得を試みるものの、無論逃亡者が素直に応じるはずもなく、その距離はどんどん離れてゆくばかり。そして遂には少女の背中すら見えなくなってしまった。


「このままでは……くっ、やむを得まい」


 葛藤かっとう懊悩おうのうの幾時の後、追走を続ける男が素早くデバイスを操作すると、その耳に取り付けられた無線インカムに軽いノイズが走った。とある場所との電話連絡を試みるらしい。


「……」


 しかし十秒、二十秒、三十秒……と、何故か少しも応答がないまま時間だけが過ぎてゆく。そして一分が経過して呼び出し音が変わり、自動で通話先が個人回線へ切り替わった時、ようやくインカムの向こうから一人の少女の声が聞こえてきた。


『えー……はい、お電話ありがとうございます。こちら中央図書館事務室です』

「遅い! いつでも応答できるようにしとけと日々いつも言ってるだろう!」

『……本日の電話受付は終了致しました。恐れ入りますが、改めてお掛け直し下さいますようお願い申し上げ――』

「うちは二十四時間体制だッ! それに回線が切り替わったということは、またお前は勝手に持ち場を離れていたな!?」

『あー……実は先程お婆さんみたいな顔のお爺さんが道を尋ねてきましてね、その方を目的地まで案内してあげていたんですよ。いやあ〜、なにぶん困っている人を見て見ぬ振りはできないたちなものでして、ハハハッ』


 警備員は大声で怒鳴り散らすが、対する少女は飄々とした態度でその声からは反省の意が全く感じられない。


「なぁ、これで何度目だ? 少なくともここ三ヶ月で十回は聞いた台詞だが……本当なんだろうな?」

『んもう酷いなあ。それにほら、前回もきちんと証人がいたじゃあないですか』


 それは、つい三日前の出来事。


 その時も彼女は許可を取らずに持ち場を離れており、理由を聞かれた際に全く同じ台詞を吐いたのだが、荷物を運んでもらったという女性の御家族から感謝の電話があったのだ。それ故に少女の上長である警備員も強くは否定できないでいるというわけである。


「……まあ、お前の善行に対して市民の方々から複数回御礼の言葉を頂戴したのも事実ではある」

『そうですよ。部屋だってこまめに掃除するタイプなんですからね!』

「誰に対するアピールだ……。それにお前、それ以上にゲームセンターやらカラオケやら……仕事をさぼって遊んでいたのは何処どこのどいつ」『ああ! こ、これまたあんな所に困っているお婆さんが!』「はあ!?」『こうしちゃいられない!』「ちょっ、おま」『うん、正義感の強い黒羽くろばさんの部下として職務を全うしないとですよね!』「だから話を」『という訳ですので、それでは、また!』「おい――」


『いってらっしゃいませだにゃん、お嬢様ぁ♡』


「『……』」


 是が非でも通話を終えようとする少女の後ろから聞こえてきたのは、何とも可愛らしい声だった。


「ほう。これまた随分とハイカラなご趣味をお持ちの御婦人だなあ?」

『……猫好きみたいですね』

「んなわけあるか、この大馬鹿野郎ッ! やっぱりまた職務中にサボってやがったじゃねえか!」

『す、数量限定の大秘宝を手にするチャンスが到来したのでつい……』

「んなもん知るか、この大馬鹿者ぉぉぉぉぉおお!」

『ごごごごめんなさいぃぃぃぃぃいいっ!』


 薄暗い通路に男の怒号とインカム越しの謝罪が響く。

 そして数秒間の沈黙の後、


「……チッ、まあいい。とりあえず十分以内に姫鶴ひめづるの中央図書館に来い」

『はにゃ? 来いって……今からですか? そりゃまたどうしてこんな時間に?』

「侵入者だよ。しかも何らかの貴重書を持ち出しているようだ」

『うわー……これまたありがちな犯行ですね。でも、そんなの黒羽さん一人でどうとでもなるんじゃ……もしかして複数犯とかです?』

「いや、今回はそうじゃない」

『……?』

「面倒臭いことに、恐らく相手は晶専の学生だ」


 男がそう告げると、


『……これまた厄介なこって』


 途端に少女の声がワントーン低くなった。


「まあ、そういうことだ。恐らく奴は正面玄関から外に出るだろうから、とにかく早く来い。いいか、万が一逃げられでもしたら今月分の報酬は一切無しだからな!」『え、ちょ、それはあまりにも』


 プツン――。


 少女の訴えを最後まで聞くことなく、男は一方的に通信を遮断した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る