第20話 悪夢と懺悔②
「起きろ、寝坊助太郎~」
眩しい光と共に感じる頬を突つかれる感触。幼い
「なんだよパパ。 今日休みなんだからこんな早く起きなくたっていいでしょ……」
まだ眠気の残る声で抗議する神楽は父である
「ほらほら、朝の時間は貴重だぞ~。 さっさと起きて準備しないと一日があっという間に終わっちまう!」
「パパこそ、いつも帰り遅くて疲れてるのに無理してるんじゃないの?」
立ち上がった神楽が不機嫌そうに背中を向けてぶつぶつと呟くと喜晴はその小さな背中を見つめながら優しく笑い、肩を軽く叩いた。
「そうか? 俺は元気だから心配いらねぇよ~」
軽く受け流すような調子の喜晴に不満げな神楽だったが、結局そのままリビングに連れて行かれてしまった。
リビングには赤いエプロンを身に着けた中学生の義姉・
「おはよ神楽。 パパ、もうそろそろ朝ご飯できそうだからテーブル拭いといてね」
輝夜が喜晴に軽く声をかけると袖をうまく通せずに四苦八苦している神楽に気付いた喜晴はそっと手伝ってからテーブルへと軽やかなステップで向かった。
「了解~。 綺麗にしとくから、輝夜は焦がさないように気をつけろよ」
「分かってるよ、てかパパが不器用だから代わりに料理してるんでしょ!」
「わりぃわりぃ、俺作るとダークマター出来ちまうからな」
ぼんやりと輝夜と喜晴の軽口を眺めていた神楽は二人に名前を呼ばれてふと我に返った。
「神楽、早く座りなさい。 ご飯冷めちゃうよ」
「ほら、朝食は大事だぞ。 ちゃんと食えよ~!」
その声に促され、神楽は席に着くと三人で朝食を食べ始めた。食卓には焼き魚や卵焼き、味噌汁といった家庭的な料理が並んでいた。
神楽は一口ずつ丁寧に食べ進め、会話が弾む訳では無かったが穏やかな空気が流れていた。
朝食を終えると輝夜は立ち上がり、食器を片付けながら喜晴に声をかけた。
「パパ、食器洗いお願いね。 私、もう準備しちゃうから」
「了解~。 輝夜、右側の髪先が絡まっててみっともないぞぉ」
「分かってるってば!」
輝夜は食器をキッチンに置いてそのまま洗面所へと向かった。手際よく身支度を整えた輝夜はすぐに玄関へと向かい、靴を履くと振り返って笑顔を見せた。
「じゃ、行って来る!」
「おう、頑張って来いよ!」
神楽と喜晴は急いで玄関まで駆けつけ、見送りのために手を振る。輝夜も振り返って手を振り返すとそのまま玄関を出て行った。
静かになった玄関で喜晴は輝夜が出て行った方向をしばらく見つめていたが、ふと神楽の方に顔を向けて微笑んだ。
「さて、洗いもん終わったらママの見舞いにでも行くか」
その言葉に神楽は俯きながら小さくコクリと頷く。心無しか少し沈んだ様子の神楽を見て喜晴は無言で彼の頭を優しく撫でた。
その温もりに神楽は少しだけ顔を上げた。
「大丈夫だ、神楽。 ママもきっと元気になるからな」
その言葉がどこか頼もしく、けれど少しだけ儚く聞こえたのは幼い神楽にもわかるものだった。
病院に到着した喜晴と神楽は小さな花束と果物の入った籠を手に病室を訪れた。部屋の中には窓際のベッドで外をじっと見つめている女性の姿があった。
その女性はどこか太陽のような明るさを感じさせる美しい人だった。頭には丁寧に巻かれた包帯があり、点滴スタンドには輸血パックが吊るされ、そこから手首へと管が伸びている。
「おはよ、宮ちゃん」
喜晴が明るい声で話しかけると神楽の母、
「あら、喜晴君に私の可愛い神楽ちゃん。 もしかしてお見舞いに来てくれたの?」
神楽は少し恥ずかしそうに俯きながらもベッドの隣にあったパイプ椅子まで歩いて腰を下ろす。喜晴も同じく椅子に座り、手に持っていた花束をそっと棚のガラス花瓶に入れる準備を始めた。
「宮ちゃんの元気チェックをするのはいつも輝夜に任せっぱなしだったからね。 今日は俺が行くって言ってやったんだ、休日だからさ」
そう言いながら喜晴は花瓶の中の古い花を取り出し、新しい花を優しく差し込む。その姿を見て、宮野は目を細めて口元を軽く手で隠しながら微笑んだ。
「でも貴方、いつも仕事で疲れてるじゃない? 輝夜からよく聞くわよ。 夜遅く帰って来て、玄関で寝ちゃうから叩き起こしてるって」
その言葉に喜晴は思わず顔をしかめ、少し大げさに肩を落とす。
「マジか……言ったのかよ、アイツ」
その様子がおかしかったのか、宮野は柔らかい笑みを浮かべた。神楽はそんな二人のやり取りを静かに見つめながらどこか安心感を覚えた。母の穏やかな笑顔と父の飾らない優しさがこの一瞬だけでも、神楽の心を温かく包み込んでいた。
「神楽ちゃんはいつも寂しくない?」
宮野が優しく問いかける。神楽は一瞬戸惑いながらも小さな声で答えた。
「ううん、大丈夫」
宮野は神楽の答えに小さく頷きながら「そう、でも甘えることも必要よ」と優しく返す。喜晴も神楽の肩に手を置き、「宮ちゃんが言うんだから間違いないぞ」と笑いながら後押しした。
花を替え終えた喜晴は椅子に腰を下ろし、今度は籠からリンゴを取り出した。ポケットから果物ナイフを取り出すと慣れた手つきで皮を剥き始める。
その姿を見ていた宮野は少し驚いた表情を浮かべながら声を掛けた。
「まぁ、貴方。 リンゴの皮が剥けるようになったの? 前は不器用すぎて微塵切りにしちゃってたのに」
その言葉に喜晴はむっとした表情を作りながら皮を丁寧に剥いていく。
「うるさいな。 俺だって練習してんだよ」
「ふふ、私にかっこいいって言われたかったの?」
宮野のからかいに喜晴は自信満々に答えた。
「当たり前だろ、俺はいつも皆のこと引っ張ってるからな」
その軽快なやり取りに神楽も自然と笑顔になっていた。二人の和やかな会話は神楽にとっても心が癒される温かい時間だった。
やがて時が過ぎ、喜晴と神楽が病室を後にしようとした立ち上がると宮野が二人を呼び止めた。
「ちょっと待ってね」
「ん?」
宮野が枕の後ろに手を伸ばし、喜晴に渡してきたのは三人分のマフラーだった。それぞれ色違いで丁寧に編まれている。
「これから冷えるからね、風邪を引いてほしくないの。 輝夜ちゃんにも渡しておいて」
「ありがとう、しっかり渡しとくよ!」
喜晴は感謝を込めて受け取った。すると宮野は神楽に手招きをする。
「神楽ちゃん、ちょっとこっち来て」
神楽がベッドの隣に近付くと宮野は微笑みながら優しく問いかけた。
「神楽ちゃんは、何か私と約束したいことある?」
神楽は少し考えた後、顔を上げて答えた。
「……じゃあ、みんなでご飯食べに行きたい!」
その言葉を聞いた宮野は穏やかな笑顔を浮かべながら自分の前髪を耳の後ろにずらし、小指を立てて神楽の方に差し出した。
「じゃあ、それが約束ね」
「うん!」
神楽も自分の小指を絡めてしっかりと約束を交わした。その光景を見た喜晴もどこか安心したように微笑む。
そして二人は宮野に手を振りながら病室を後にした。
廊下を歩く中、神楽は握りしめた小指の感触を思い出しながら小さな希望を胸に抱いていた。
しかし、その約束が果たされることは無かった。
突如として戦争への召集令状が届き、喜晴は神楽と輝夜を親戚の家に預けて必ず帰ると約束して家を後にした。しかし、その約束は永遠に果たされることは無く、喜晴が家に戻ることはなかった。
その後、徐々に快方へ向かっていた筈の宮野の病状も突如悪化した。
ある日、病院から緊急の連絡を受けた神楽と輝夜は慌てて病院へ向かった。しかし、二人が病室に到着した時には、宮野の目は既に閉じたままだった。
神楽は震える手で母の小指に自分の小指を絡めた。けれども、あの日交わした約束の時とは違い、宮野の小指は微動だにせず、氷のように冷たかった。
その冷たさは神楽の胸の奥に深い闇を刻み込むようであり、彼の中に何かが壊れる音がした。
その日以来神楽の心にはぽっかりと大きな穴が開き、何をしても埋めることのできない喪失感が彼を支配していったのだった。
時が過ぎ、神楽が小学生、輝夜が小学校の最高学年となった頃。
二人の生活には、未だに喜晴と宮野の死の影が色濃く残っていた。特に輝夜は両親の死を受け入れられず、心に深い闇を抱え込んでいた。
ある日、神楽は勇気を出して輝夜の部屋に足を踏み入れた。
「姉ちゃん、もう考えるのやめなよ……いくら考えたって戻って来ないんだよ」
そう言った神楽の言葉に輝夜は振り返ることなく低い声で答えた。
「だから? だから何だって言うの? アンタには関係ないでしょ、出てけよ」
その部屋の光景に神楽は息を飲んだ。
窓は段ボールで覆われ、外の光を一切遮断していた。壁や天井、床には無数の引っ掻き傷や血痕が残り、荒れ果てた空間が広がっていた。輝夜自身の姿も変わり果てていた。痩せ細った体、痛み切った髪、そして虚ろな目。
彼女はすでに中学校にも通わず、親戚達も手を焼いていたが神楽だけは彼女を見放せなかった。その想いから部屋に踏み込んだ瞬間――。
「ッ……!」
突如として鋭い痛みが神楽の肩を襲った。カッターの刃が深く突き刺さり、じくじくとした痛みが広がる。血がじわりと滲み出すのを感じながら神楽は恐怖で動けなくなった。
輝夜の目には狂気の光が宿り、次の瞬間には神楽は縄で縛られ、口にはガムテープを貼られて声を封じられた。そして部屋の扉を勢いよく閉めた輝夜は縛った神楽に跨るとその手で首を締め上げ始めた。
「お前なんて私の弟でも何でもないのにッ……!」
輝夜の声は怒りと悲しみ、そして深い憎悪に満ちていた。
「なんでヘラヘラして生きてるのよ……! なんで私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの……!!」
「ン”ッ”……ン”……」
「この世界が……憎い。 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いニクイニクイニクイニクイニクイィィィ!!!!」
凶器に満ちた瞳が神楽を睨みつけ、締め上げる力が徐々に強まっていく。
やがて、神楽の抵抗していた手も力を失っていき……意識が遠いっていったのだった――。
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