第2話
ショルカは、自分が王家の人間だということを知らずに育った。王国のはずれ、レラ国との国境近くに、彼が育った家がある。父は近くの山の頂で雲を採り、それを織って布を作ることを生業にしていた。父の織る布は、彼自身のように優しく、暖かかった。
コーグ国の人間にしては色白で、儚げな面立ちの父に、ショルカは少しも似ていなかった。ショルカを生んですぐ亡くなったという母の顔は写真でしか知らないけれど、やはり彼とは似ていなかった。ふくよかな丸顔で、穏やかで柔和な表情を浮かべた、怒った顔など想像もつかない女性だった。
一度、両親のどちらにも似ていないことを気にして、父親に打ち明けたことがある。夕飯の支度をしていた父は驚いた顔をした後、いつものように優しく笑い、十歳になったばかりのショルカの頬に触れた。
「お前は、お母さんにそっくりだよ。自然が好きなところも、猫舌なところも、そのくせ温かいスープが好きなところも。お母さんもよく、舌を火傷させながら飲んでた。本当におかしくて、かわいらしくて」
そう言って、食卓に置いてあった鏡を手に取り、仏頂面の息子に渡した。長身をかがめ、ショルカの艶やかな黒髪を愛おしそうに撫でる。
「そんなしかめっ面してたら、似てるわけないだろう。思いっきり笑って御覧。鏡の中に、お母さんが現れるはずだよ」
言われた通り、歯を見せて笑ってみる。高い鼻梁、薄い唇。あの丸っこい可愛い笑顔に似ているとは到底思えない。笑顔が曇った刹那、父が包み込むようにショルカを抱きしめた。
「そっくりだ、ショルカ。お前が笑うとき、お母さんはいつも一緒にいるよ」
父の温もりに包まれて、容姿が両親に似ているかどうかなど、どうでもよくなった。自分は、深く愛されて生まれてきた。それだけは確かだ。
「お父さんも、ずっと一緒にいてね」
最愛の息子はそう言って、父のやせた背中に手を回した。
「もちろんだ」
そう答えた父が病に倒れ亡くなったのは、その年の冬だった。
父は死ぬ間際の夜、いつもと変わらない優しい手つきで、ベッドの脇に座り込むショルカの頬を撫でた。
「お前は何も、心配いらないからね。じきに、迎えが来る。何不自由ない暮らしがお前を待っているから」
ただでさえ華奢だった父の指は、いよいよ折れてしまいそうな細さになっていた。ショルカはすがるように、守るように、その手を握った。
「今までの生活なんて、お父さんのことなんて、きっと忘れてしまうよ。これまでが全部、間違いだったんだ。だって、お前は」
そこまで言って、父はひどく咳込み、落ち着くと静かに目を閉じた。そしてそのまま、目を開けることはなかった。
眠っているような顔の父に、何度呼びかけたかわからない。声がかすれるまで叫んでも、父はもう答えてくれなかった。それでも、冷たい夜の間中、ショルカは父を呼び続けた。
ショルカが我に返ったのは差し込む朝日と、外から聞こえる騒がしい靴音のためだった。こんな硬い靴音は、聞いたことがない。誰かが、ここへやって来る。
涙も乾かぬ頬で、身構えるショルカの耳に、乱暴にこの家のドアをノックする音が届く。動かなければと思うのに、床についた膝はしびれ、体には力が入らなかった。声すら出せずにいるうちに、ドアが破られる音がした。
靴音の主は部屋を順番に物色し、父とショルカのいる寝室へ向かっている。果たして、彼らは何人いるのだろう。泥棒にしては、物音に乱雑さがない。まわらない頭で、ぼんやりと考えた。
寝室に足を踏み入れたのは五人の男だった。盗賊じゃない、とショルカは確信する。まとっている服も、携えている銃も、上等すぎる。四人が一人を守るように囲んでいるせいで、囲まれている男の顔はよく見えない。けれど、彼が放つ気配が普通の人間のそれとは明らかに異なることは、幼いショルカにも理解できた。
「お前が、ショルカか」
彼はそう言うと周りを押しのけ、一歩進み出た。床に座り込んだままのショルカと対峙する。顔に刻まれた深い皴から、彼が老人というべき年齢なのが読み取れた。しかし、その鋭い光を持つ黒い瞳と、真っすぐに伸びた背筋から、衰えというものは一切感じられない。
彼は驚くほどの長身をかがめ、答えない哀れな少年の顔を覗き込んだ。間近で見る男の顔に、ショルカは既視感を覚える。高い鼻梁、薄い唇。長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳。他ならぬショルカ自身の顔によく似ていた。
既視感の正体に胸がざわつき、視線を逸らす。ふと、男がその手に見覚えのある何かを握っていることに気づいた。
父の便箋だ。あの優しい青色は、父が大切にしていた便箋の色だ。誕生日には毎年、あの色の便箋で手紙をくれた。こうして文字に残せば、大人になっても一緒に読み返せる日が来ると言って、成長の喜びを綴ってくれた。
「お父さんの」
やっと発した声はかすれて、それ以上続かなかった。
男は顔を上げ、ショルカの傍らのベッドへ歩み寄った。横たわる父の首に手を当て、その死を確かめると、静かに目を閉じた。その表情は、悼むようにも、悲しみに耐えるようにも見える。
「・・・痩せたな」
ほとんど聞き取れないほどの小さな声で呟き、男は息を吐いた。そして大きな瞳を開き、哀れな親子に背を向ける。部屋を出ていく男の便箋を握る手は、先ほどよりも一層力が込められているように、ショルカには見えた。
四人の従者のうち三人は男に付いて部屋を出て行き、一番背の低い一人だけが部屋に残った。柔らかそうな赤い巻き毛の、線の細い美形。
「心配いりません。私と一緒に参りましょう」
その人はそう言うと、床に座り込んだままのショルカに歩み寄り、膝をついた。女性と見まごう容姿だが、その優しい声は男性のものだった。
彼はベッドに横たわる父をじっと見つめた後、ショルカの手に触れ、その冷たさに驚き両手で包んだ。そして、不安げな表情の少年に、柔らかい笑顔を向ける。
「あなたのことは、私が守ります。皆、あなたの味方です」
手の温もりに、笑顔の優しさに、乾きかけていた涙が再び溢れ出す。美しい男は、何も言わず、ショルカの頭を撫でた。彼からは良い匂いがした。清潔なシーツの中に、甘い花弁を落としたような。嗅いだことのある、懐かしい匂いだ。
先代の王と、そしてアムアと初めて出会った十年前のあの日のことを、ショルカは今も繰り返し思い出す。まだ末席の従者だった、二十二歳になったばかりのアムアの温もりが、どれだけ自分を救ってくれたことか。
「・・・まあ、こんなおっかない人だとは思わなかったけど」
「なんか言いましたか」
独り言が聞こえたようで、アムアが反応した。ショルカは慌てて、何でもない、と首を振る。
「集中してください、もうじき時間なんですから。ほら、続けて」
今日は、隣国のレラ国の王が、ショルカの即位のお祝いに、贈り物を持って来訪することになっている。お飾りの王であることを悟られるわけにはいかないのだから、失敗は許されない。挨拶の言葉、お礼の言葉、別れの言葉・・・アムアが書いた台本を、ぶつぶつと復唱する。
棒立ちで別れの言葉の復唱に入った新王が身にまとっている衣装を、アムアが細かくチェックする。ベルトのゆるみ、布の皴、どんな些細なところも見逃さず正していく。
「・・・襟元が、少し緩んでるな」
「うえっ」
アムアに首元を引っ張られ、少しだけ息が詰まる。
戴冠式から約一か月。レラ国王を出迎えることは、新王ショルカの二回目の大仕事だ。早まる心臓をそっと抑えた。即位してからというもの、議会に出席しても発言の機会もなく、ただじっと聞いて承認を下すだけの日々だった。お飾りの王なのだから上出来だとアムアは言うけれど、なんだか透明人間のような気分になる。しかし、こうやって人前に出るのはこれはこれで気が重い。
「さあ、台本は頭に入ってますね。そろそろ行きますよ。細々した会話は、笑うなり頷くなりしてやり過ごしてもらえば大丈夫です。最悪助けが必要そうなら、私が割って入りますし」
「ああ、頼りにしている。ありがとう」
意を決し、アムアに続いて自室を後にする。扉の外で待機していた大勢の近衛兵が、ショルカとアムアを守るように取り囲んだ。緊張を飲み込み、毅然とした表情を作って、しっかりとした足取りでレラ国王が待つ城の広間へと歩を進めていく。
城の廊下ですれ違う者たちが、ショルカの姿を認めると立ち止まって深く頭を垂れる。王相手なのだからそうするのが慣例だが、あからさまにそれを無視する輩もいる。新王がお飾りだと知る者たちだ。彼らはショルカが初めて城へ来た日から、馬鹿にした視線を送っていた。
皆、あなたの味方です。父が死んで自分を迎えに来たあの日、アムアはそう言った。それは嘘だ。王の血を引く十歳の少年が急に現れたことを、快く思わないものは城の中に数多くいた。
父が言った、母とショルカの笑顔が似ているといった言葉も、ずっと一緒にいると言ったことも、嘘だった。けれど、全て私を愛するが故の優しい嘘だ。この嘘に守られて、今日まで生きてきた。
私は、アムアのことも、父のことも愛している。お飾りの王として即位したこの数奇な人生も、きっと心から愛せる日が来るだろう。光の王は、彼とともにある者たちに守られながら、広間に足を踏み入れた。
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