第34話 守れそうにない約束

 階段の踊り場、自販機と自販機の間にある狭い溝。

 そんな辺鄙な場所に体を潜り込ませ、俺はブラックコーヒーを飲んでいた。

 生暖かい自販機の側面。

 低く響く駆動音に脳を揺らされていると乱れた心が少しずつ落ち着く。

 本当ならば、俺はいますぐにでも第二文芸部へ向かわなければならない。けれど、曖昧な心のままあの場に立つのは嫌だった。自分の考えをまとめた上で、彼女たちと対峙したかった。

 目を閉じると、ピニャの悲しみと怒りの入り混じった表情が瞼に浮かぶ。

 胸の奥がキリキリと痛んだ。


 昼間のパンツが俺のカバンに入れられていて、冤罪を被せられたことで、俺とピニャの友情は崩れ去った。

 おそらく、この後、第二文芸部で行われる円卓会議にて俺は裁かれることだろう。

 また接近禁止令を出されて悠馬と近づけなくなるかもしれない。

 最悪、警察に突き出される可能性だってある。


 誰が仕組んだことなのか、その目的が何なのか、そのあたりのことはどうでもいい。俺がいま、気落ちしているのは、ピニャにあんな顔をさせてしまったから。そして、俺が罰せられることで、彼女にもペナルティが生じることに思い至ったから。


 かつて、接近禁止令の撤廃を求めて円卓会議を開いた際、片瀬は「もしハチが昼間に好意を寄せていたなら、悠馬のことを諦める」と宣言している。今回の事件は、昼間に対する偏執が原因でおきたクズ男の暴走として認識されているはずだ。となると、俺のせいで彼女は悠馬のことを諦めなければならなくなる。


 このままいけば、ヒロインレースから、ピニャが脱落する。


 本屋のBL本コーナーにてたまたま出会った彼女は、俺の恋愛嗜好をすんなりと受け入れ、男が好きだと語るアブノーマルな俺の最初の理解者になってくれた。腫れ物に扱うでもなく、奇異の目で見るでもない。ふつうの友達として、いやそれ以上の存在として、恋愛相談を持ちかけ合うことを前提とした共同戦線を築いてくれた。

 ありがたかった。

 暖かい気持ちになった。

 今振り返るとそう思う。

 そして、リリアナが語った言葉が理解できる。

 俺は、片瀬比奈に恩義があった。


 同じ人を好きな者同士。

 順当に考えれば、彼女はただの邪魔者の、目障りな恋敵で、煙たい存在のはずである。けれど、俺にとってピニャは、眼の上のたんこぶじゃなく、隣に並んで馬鹿話をしていたい一人の友人になっていた。


 必死に悠馬にアプローチする姿。彼との恋路の発展を真剣に考えて頭を悩ませ、頬を染めながら何度も恋愛相談をしてきた彼女は、何度すげなくあしらわれても、負担になるまいといつも笑顔で「気が向いたら遊びに行こうね」と明るく振る舞っていた。心折れそうになる日もあっただろう。不安に押しつぶされそうになる日だってあったはずだ。


 悠馬の周りには、認めるのは悔しいが魅力的な少女たちが何人もいて、そんな彼女たちとしのぎを削らなければならない。恋愛戦争の日々、なかなか進展しない関係。くすぶる心があったはずだ。それでもピニャは苛立ちを見せずに、明るく元気に悠馬へアプローチしていた。魔王と恐れられ嫌われる彼に好意を持っていると周囲へ喧伝するような行為は、みんなの人気者という立場にある彼女にとってはマイナスでしかない。それでも片瀬は気にしなかった。ピニャはまっすぐに進んだ。


 自分の好きを貫き通して、自分の愛を必死に伝えようとする。

 いつだって彼女は真剣だった。

 そんな彼女の恋路が、今回の騒動が起因となり、閉ざされようとしている。


 いいじゃないか、厄介なライバルが減るんだから──違う。

 いいじゃないか、もう俺は嫌われているんだから──違う。

 いいじゃないか、もうすでに手遅れなんだから──違う。


 なにひとつ、いいことなんてありゃしない。

 こんなことで、片瀬比奈が、メスブタが、悠馬のことを諦めるなんて絶対に嫌だ。


 悠馬の心の傷を癒せるのは、もしかすると、彼女のような優しく明るい人間なのかもしれない。だから俺は身を引くべきだ。そんな風に思えてしまえるくらいに、俺はピニャのことを認めていた。あいつにならヒロインレースで敗北しても仕方がないと割り切れる。だからこそ、正々堂々、正面からの勝負以外で彼女が敗退するのなんて認められなかった。


 苦いコーヒーを一気に飲みくだす。

 狭くて暗い隙間から身を捩って抜け出した。

 空き缶をゴミ箱に捨てる。


「湾太郎、ここにいたのか」


 低く響く大好きなバリトンボイス。

 声のもとへ視線をやると、そこには悠馬が立っていた。

 探したぞ、聞きたいことがある。

 そう言って彼は言葉を続けた。


「さっき、片瀬が俺の背中に抱きついてきて『さよなら』って言ってきたんだが、どういうわけかお前知っているか? すぐに走ってどこかへ行ったからあいつには聞けなかったんだ。……たぶん、泣いてた」


 少しだけ眉を歪めた悠馬の表情を見るに、状況が飲み込めず困惑していることがわかった。いつだって笑顔で話しかけてきていたピニャが、はじめて彼にネガティブな側面を見せたんだ。事情を一切知らない悠馬がその行動の真意を見切るのは難しいだろう。


「湾太郎は片瀬と仲がよかっただろう? なにか知らないか? すこし心配でな」

「……安心してくれ、悠馬」

「訳を知っているのか?」


 尋ねる彼に俺は嘘をつく。


「ただのドッキリだよ。悠馬はいつも片瀬が遊びに誘っても断るだろ? 押してダメなら引いてみろってことで、俺があいつにアドバイスしてやったんだ。どうだ、効果覿面だったか?」

「なんだ、そういうことか。……まあ、たしかに、心配にはなった。心臓に悪いからあまりこういうことはしないでくれ」

「分かったよ。俺が悪かった。ぜんぶ俺の作戦だからな、ピニャは悪くない。悠馬には不評だったって伝えておくよ」


 そして、そのままこの場を立ち去ろうとした。

 しかし、悠馬とすれちがった瞬間、彼が俺の腕を力強く掴んだ。

 心なしかいつもよりも優しい声音で気遣うように彼は言った。


「なあ、湾太郎、もしかして調子が悪いんじゃないのか? 様子が変だぞ」


 ……。

 なんだよ、気づくなよ。

 これから俺がピニャのためにすることは、悠馬との関係を破壊しかねない危険な行為だ。彼の隣には二度と立てないかもしれない。嫌われるかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない。彼だけじゃない。俺は学校中のみんなから、奇異の目で見られ、蔑視され、嘲笑される立場に堕ちるかもしれない。

 けど、それでもいい。

 俺は、ピニャが、俺の友達が、涙を流して恋を諦めるとこなんて見たくない。

 だから、


「大丈夫だよ。コーヒーを一気飲みして腹の調子が悪いだけ」

「……本当か?」

「本当だって。だから心配しないでくれ」


 腕から悠馬の手を外し、背中に感じる視線を振り切るように、第二文芸部へ足を早めた。


 ──ゲイであることは人に話さないほうがいいわよ。


 リリアナの忠告が頭の中をリフレインする。

 ごめん、ちょっと守れそうにねぇや。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る