第5話 恋の逃避行 その4
井草の匂いがふわりと香る。
キッチンに面した6畳一間のリビング。奥に一部屋、物干し竿に布団が掛けられていることから寝室であることが伺える。ちらりと仏壇が見え、優しそうな爺さんがしわくちゃの笑顔を浮かべる写真が飾られていた。なるほど未亡人か。その先には扉がふたつ。浴室と便所だろう。昔ながらの家の作りに、古い外観から、このアパートがそれなりの築年数であることが推測された。
「乙女の部屋をジロジロ見るもんじゃないよ」
「はは、冗談キツいっすよ」
「あんたぶちのめすよ」
けっこう本気でキレてらっしゃるので顔を引き締めて頭を下げた。ぺしんと後頭部を軽く叩かれる。おばあちゃんはリビングと奥の部屋を隔てる襖を閉めて、座卓に添えられた座布団に腰を下ろした。対面する位置に顎をしゃくり着席を促されたので大人しく従う。テーブルの真ん中に置かれた器。上質な包装紙に包まれた堅焼き醤油せんべいに手を伸ばす。
「あ、そうだ。すいません、お茶ください」
「……図々しい子だよ、まったく」
よっこいせ、と重い動作で立ち上がった婆さんに付き従って冷蔵庫まで行く。命令されるままコップを戸棚から取り出して、座卓に並べた。冷茶ポットも重そうなので俺が運ぶ。ばあちゃんと俺の分の茶を入れ、水気が散らないよう敷物の上にポットを置いた。
ボリボリとせんべいを食う俺に、茶を啜りながら彼女は言った。
「さっきの話の続きだけどね。あんたはただ、認めたくないだけだろう?」
もぐもぐしながら婆さんの問いかけに答えず唇を尖らせる。
二倍の重力を両肩にかけられたかのように彼女はげんなりした表情を浮かべた。
「気色悪い顔するんじゃないよ、可愛くない。あんたはね、好きな女に振られて、けど認めたくなくて、そんでその責任を自分じゃなくて他のどこかへ持っていきたかっただけなんじゃないのかい。ちょうど良かったのがゆうちゃんの学校での噂だったんだろ?」
「……それは違いますよ。最初は本当に、手塚が悪い奴かもしれないと思ってました」
「そうかい。そりゃ悪かったね。けど、今は違うはずだよ。あんたは噂通りじゃないゆうちゃんをたくさん見てきたんだ。それでも朝っぱらから家の前を張り込むってことは、認めたくない何かから目を逸らして現実逃避してるだけだろう?」
「このお茶、えぐみが強いっすね」
「話を誤魔化すんじゃないよ。質問に答えな。でなきゃ叩き出すよ」
俺は胡座をかいていた足を正座に組み直す。
……そうだ。
俺はとっくの昔に気が付いていた。
認めたくない心が思考を鈍らせていたとしても、状況を整理し考える頭が残酷に結論を突きつけていた。
魔王手塚。
それは嫉妬に駆られた富が丘高校男子生徒諸君が作り出した虚構の存在。
本当の彼は、凶悪ヅラで無愛想なだけの、ただの良い奴だ。
昼間さんが手塚に話しかける時、彼女は決まって声音を弾ませ楽しそうに笑っていた。ふと彼と目が合うと恥ずかしげにポリポリと頬をかき、窓から風が吹き込めば乱れた前髪を手櫛で丁寧に整えた。俺が彼女と話したのは告白の時の一瞬の間だけ。それでも分かる昼間さんの態度の違い。無愛想な黒猫のように気まぐれでいて自由な少女、それが俺の知る昼間瞳子だ。しかし、手塚悠馬とおしゃべりをするときの彼女は華やぐ世界の中心にいて、いつもの何倍も魅力的だった。
暴力や恫喝で支配している──そんなのありえない。
昼間さんも、他の女子たちも、ただ単純に手塚へ好意を抱いていた。
学内の様子を見るだけで、そんなこと簡単に分かってしまった。けれど、認めたくなくて、救いが欲しくて、ただのやっかみの噂話に自ら踊らされながら粗を探すように学外での尾行にも踏み切った。
すると、どうだ。手塚悠馬がなぜ彼女たちに好かれるのか、その理由をまざまざと見せつけられた。
困っている人がいれば助ける。そんな当たり前なことは、当たり前というには少しばかり難しい。それでも手塚はその当たり前を当たり前にこなす。たとえ、その荒々しい風貌を理由に、ろくな感謝をされなくたって、加害者に間違えられたって、届く手の範囲で起きる事柄から目を逸らして知らんふりをすることはなかった。
そんな彼だからこそ、彼女たちは惹かれるのだ。
そんな彼だからこそ、認めざるを得ないのだ。
俺は男として、手塚悠馬に敗北している。
昼間瞳子の心を射止めたのは、俺じゃなくて手塚だった。
「……婆ちゃん、俺、ダメダメだな」
「まあ潔くはないだろうさ。ストーカーまでしてライバルの男を追いかけとるんだから。けどそれも、理由があってのことだろう。あんたが最初に考えてたように、最低な噂話が本当なら、ゆうちゃんを止めないといけないからねぇ。……真実に辿り着いてもなお、惨めったらしく追いかけ回し続けたのは良くなかったかもね」
昼間さんにフラれたこと。
その失敗を手塚に押し付けて、情けなくも現実逃避していたこと。
婆ちゃんに諭されて、ようやく俺は自らの非を認めることができた。
先延ばしにしていた失恋の苦痛が、俺の心を一気にキツく締め付けた。
膝の上に置いた拳をギュッと握る。
滲み始めた視界。
顔を斜め下に向けて、俺は座卓の真ん中のせんべいを親の仇を見るように睨みつけた。
温かみのあるしゃがれ声で老婆は雨音のようにポツポツと言葉を落とす。
「ただ、今こうして、自分でケジメをつけて前を向くことができたんだから、妥協点くらいあげてもいいと思うよ。あんたはまだ若い。いろんな苦い経験をして、モノの道理を学んでいくんだよ。失敗したらダメだったところを噛み締めて、これからの人生に活かしゃいいのさ。訳がわからなくなったら周りを頼りな。きっと助けてくれる人がいるはずさ」
「……おれ、友達、いません」
「……あ、あたしに話してくれてもいいからね」
「ばあちゃーん!!」
畳をずりずり這ってテーブルを避けて婆ちゃんのもとへ行く。座布団に猫背で座る姿は立っていた時よりもさらに小さいはずなんだけど、どういう訳かとても大きな存在であるように思えて。そんな彼女の膝に涙に濡れた汚い顔を埋め、俺は盛大に泣いた。ホッと心を包み込む温かな感覚が胸を満たす。汚してしまってすみません、けど、今だけは、少しこの膝を貸してください。
「汚いからどいとくれ」
「ばあちゃん、ぐぇ、おれ、んぐ、おれ、ぶわーん!」
「きっしょい泣き方だねぇ」
吐き捨てるような言葉は苛烈だったけれど、ばあちゃんは俺が落ち着くまでしばらく頭を撫でて膝を貸してくれるのだった。後々冷静に考えると、初対面のストーキング男子高校生のガチ泣きを優しく受け止めてくれた彼女の懐は深すぎると思った。
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