第十八話 慚愧
マリアはシエナの街にいた。ヴァチカン市国を出たその日のうちに、マリアはトスカーナ州中部のシエナにやって来た。
是非とも会って、話がしたい――と、件の手紙に書かれていたからだ。
四枚目の便箋の末尾には、差出人の名が署名されていた。そこには、〝リック〟とあった。
今、マリアが立っている場所は、中世の面影を色濃く残しているシエナの旧市街地、その中央部にあるカンポ広場。
ここはカステルヴェッキオ、サン・マルティーノ、カモッリーアの3つの丘が合流する窪地に作られている。そのために広場は扇のような形状であり、最も低い扇の付け根に向かって傾斜していた。その正面には、高い鐘楼を備えたゴシック様式で建てられた市庁舎があり、中には、シモーネ・マルティーニやアンブロージョ・ロレンツェッティのフレスコ画が壁一面に描かれた部屋もある。
リックは待ち合わせ場所として、この広場を指定してきたのだ。
時刻は夜の十二時近く。もうすぐで日が替わる頃だった。
今夜は朔の日――新月だ。天に月はなく、代わりに辺りを照らすのは、星の瞬き。
辺りに人気はない。〝人除け〟の結界用の護符を辺りに貼っておいたからだ。一般人が捲き込まれないようにするためだった。
マリアはいつものように、黒い革製のつなぎを着て、今日はブラウンの外套を纏っていた。もちろん、二本の剣も携帯している。
どういう展開になるか、予測がつかなかったからだ。
リックから届いた手紙の文面から伝わってくるのは、切実な想い。あの事件を降り、結果として、エリスを見殺しにしたことに対する自責の念、慚愧に堪えない――と綴られていた。
しかし、あの事件から、すでに六十余年。今更――という感は、どうしても否めなかった。
その上、直接に会って、話がしたいと言う。となれば、マリアでなくとも警戒するだろう。
「もう、六十年か……」
マリアはふと、呟いた。六十年を経た今も、マリアはあの頃と変わらぬまま、美しかった。
だが、リックは――?
当時、二十歳代だった彼は、今はもう八十歳を超えたお爺さんだ。
「マリア」
唐突にマリアの背後、およそ二十メートルほどの距離を取ったところから、マリアを呼ぶ声がした。
月明かりがないとはいえ、辺りを見渡すのに、マリアの眼には星の瞬きで十分だった。にも拘らず、声が聞こえた瞬間まで、気配はなかったのだ。
肌がひりつくようなこの感覚は、紛れもない。
マリアが振り向いた。リックの声には若々しい張りがあった。とても八十歳過ぎの老人のものとは思えない。
あなたも、か――。
マリアは月のない暗い空を仰いだ。星の瞬きだけが、あの事件の時と変わらない。
「リックさん……」
マリアの瞳は、あの頃のままの姿――二十代の若さを保ったリックの姿を映していた。手っ取り早く不老を手に入れる方法。すなわち――。
「あなたも?」
「……。ああ」
「いつ?」
「エリスが殺されて、しばらくしてからさ。ランドが来たんだ」
「ランドが来た?」
エリスが殺されて以降、マリアは、ランドを呼び捨てにするようになっていた。
「そうさ。あの事件の後、俺は足を洗おうとしてたんだ。怖くなったんだ。『俺より強いヤツがいる。殺されるかも知れない。死ぬのはゴメンだ』――ってな。誰だって、死にたかねえだろ?」
「そうですね。当然です」
「だから、
「ランドが来た――と」
「ああ。ヤツは言ったよ。『マリアに報復する。死にたくなかったら、手を貸せ』――ってな」
「
「皮肉だろ? 死にたくなくて、
リックは自嘲するように、笑った。
「永遠に〝
リックは孤独に耐えられなかった――と独白した。
「それで? 私にどうしろと?」
「決着を付けたいのさ。自分に。それが、どんな結末だろうと構わない。でもよ……自分じゃ決められないんだ。勝手に自決して死ねばいいじゃないか――と思うだろうが……自分じゃ死ねないんだ。怖いんだよ」
自分では死ねない。死に切れない。――かと言って、今の状態で生きていくのは耐え難い。自分でもどうしていいのか、分からないのだろう。
そんな感情を六十年も抱えて生きてきたのだ。
偽りの
「なるほど……」
「だから、さ。手伝ってくれよ」
「私に出来るやり方は一つだけですが、よろしいのですか?」
「ああ。それで構わねえ。ただ……」
「何です?」
「頭ん中で、いつもランドの声がするんだ。『マリアを倒せ! マリアを殺せ!!』ってよ」
リックは手に銃を握っていた。かつて、『俺は美女の味方なんだ』とリックは語ったが、今、街灯に鈍く光るその銃口はマリアに向けられていた。
マリアは動じることなく、冷静に応じた。
「素直に、殺されはしない――と?」
「
「いえ、構いません。主の命に抗うのは難しいでしょうから」
「すまん。気を遣わせるな」
「では」
そう言ってマリアは、両手に剣を抜いた。まだ、二十メートルの距離が両者を隔てていた。スススッ、と速足で間合いを詰めに掛かるマリアに、リックが
バババン――!!
立て続けに三発。しかし、マリアは距離を詰めつつ、右方向へ緩急を付けて移動し、的を絞らせなかった。
「チッ」
おもわず舌打ちをするリック。そのリックの顔面目掛けて、投げナイフが飛来した。
「うおっ……!?」
バン――!!
リックが仰け反りながらも狙いをつけ、何とか一発を撃ったが、マリアはそれも難なく躱した。
距離は至近。右手の一刀で繰り出す、マリアの横薙ぎの一閃。
「くっ……」
ババン――!!
リックはさらに倒れ込むように仰け反り、マリアの一閃を避けつつ、残弾二発を撃った。狙いはマリアの顔と胸部だった。
この距離では躱せんだろ――?
リックは必殺を期して撃ったのだが、カチーン、と甲高い響きを残して、弾はあらぬ方向へと飛び去った。マリアが顔と胸の正面で斜に構えた両手の剣で弾道を滑らすように弾いたのだ。
「げっ……!!」
大慌てで後方へと飛び退り、シリンダーを横へと押し出して排莢、新たな弾丸をスピードローダーで再装填し、再度、間合いを詰めて至近距離に迫っていたマリアへ向けて、今度は六発全部を撃った。元々、銃を得物としていただけに、この一連の動作に淀みはなく、六発を撃ち尽くすまで、滅法、速かった。
マリアは――今度は全弾を身体で受けた。
ただ左胸辺りを左腕でカバーするだけで、他の部分で全てを被弾した。その代わりに、リックの左胸――心臓に右手の剣を深々と突き立てていた。
「……。ありがとうよ」
「いえ。こんな手段しか出来なくて、すみません」
「そんなこたぁ、ねえよ。助かった……ぜ……」
心臓を刺し貫かれたリックは、そう言って崩れ落ちた。その身体は灰となって飛び散り、後には服と銃だけが残された。
リックの最期を看取ったマリアの表情からは、如何なる感情も読み取れなかった。
マリアは一本の投げナイフを抜くと、傷口に無造作にあてがい、身体にめり込んだ弾丸を穿り出した。
コン、ココン、ココン、コン――。
都合六発、全ての弾丸を取り出す間、マリアは僅かに顔を顰めただけである。
やがて、リックの遺品を拾い小脇に抱え、マリアは身を翻して去っていった。
立ち去るその背に纏わり付かせていたのは、尋常ならざる寂寥感であった。
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