些末なもう1つの結末
第十七話 手紙
〝切り裂きジャック〟事件が有耶無耶になってから、六十年余が経った、ある冬の日。
「ああ、マリア」
異端審問会本部の廊下を歩いていたマリアを、呼び止めた者がいる。事務局のピエトロだった。五十歳代の痩せ型の容姿。近頃は、短く揃えた髪に白いものが多くなった――と、よくぼやいている。偉大な大聖堂と同じ名前なことが、彼の自慢だ。
マリアは、先日片付けた事件に関する書類を抱えていた。その事件の報告をするため、上司の枢機卿の執務室に行くところだったのだ。
「やあ、相変わらず綺麗だね」
「何でしょう?」
「……。相変わらず、つれないね」
笑顔で手を上げたピエトロに対して、淡々と返事を返すマリアに、彼は嘆いた。
いつも冷たい。もう少しくらい、愛想良くしてくれたって……などと、ブツブツと呟いている。
「これから、ランベルティ枢機卿のところに、先日の事件の報告に行く途中でしたから」
「ああ、それは悪かった。用件は簡潔だ。君に手紙だよ。届けに行くところだったんだ。これで手間が省けた」
ピエトロは遠慮会釈もなく、そう言った。マリアも、そんな彼が嫌いじゃなかった。変によそよそしい対応をされるより、さっぱりしていて良い。
「手紙? 誰から?」
「差出人の署名がないんだ。宛名書きが『マリア』なだけで。僕の知ってる限りじゃ、見たことない筆跡だ」
「ピエトロの知らない字?」
このピエトロ、筆跡に関しての記憶力が抜群で、過去に見た字なら、全て覚えている――と豪語し、また実際にそうであった。
「ふうん……」
「じゃ、渡したからね」
「ありがとう」
次に回るところがあるから――と立ち去るピエトロに礼を言って、マリアは手にした手紙を眺めた。
「確かに……」
宛て名の字を見ても、やはり、マリアにも覚えがなかった。とりあえず手紙を懐中にしまい、マリアは当初の予定通り、ランベルティ枢機卿の元へと向かった。
「……以上が、先だっての事件のあらましになります」
「うむ。ありがとう。ご苦労だったね」
「では」
「ああ、ちょっと。少し待ちたまえ」
頭を垂れ、身を翻してランベルティ枢機卿の執務室を出ようとしたマリアを、枢機卿が呼び止めた。
ランベルティ枢機卿は四十歳半ば。ゆったりとした好印象を与える人物で、傍目には、こんな人が異端審問会に所属しているのか――と思わせた。
「は? はい」
「この件はどれくらい掛かったのかな?」
「? 日数のことですか?」
ランベルティ枢機卿の問いに、マリアが首を傾げながら、質問の意味を聞き返した。ランベルティ枢機卿は、
「うん」
と頷き返し、答えを求めた。マリアは僅かに思案し、
「それでしたら、
と、口にした。
「ふむ……」
マリアの返答を聞いたランベルティ卿は、しばらく考えた後で、
「休暇を取りたまえ」
と、唐突に告げた。
「は?」
「休暇だよ、休暇。そうだな。一週間、取りたまえ」
「一週間も頂けるのですか?」
「ああ。君は働き過ぎだからね。これの前の事件でも、休まなかったろう? すぐに今回の件に取り掛かった」
「……。分かりました。それでは、これより一週間の休暇に入ります」
「うん。ゆっくりとお休み」
「はい。では、これで失礼します」
「ああ」
マリアは、ランベルティ枢機卿の執務室を後にし、自室に戻った。そして、事務机の椅子に座り、改めて封筒を眺めた。やはり、知らない字だ。
右側上段の引き出しを開けて、ペーパーナイフを取り出し、封を切った。中の便箋を取り出したマリアは、誰からとも知れぬ手紙を読み始めた。
〝《≪Dear Maria≫》 ――。
その言葉から始まる便箋は、四枚あった。
全ての便箋を読み終えたマリアは、内容を確認するように、もう一度、手紙を読み返した。それから、
「休暇は一週間貰えたのよね……」
と、独り言のように小さく呟いた。意を決したのか、マリアは俄に立ち上がり、クローゼットからトランクを取り出して、荷物を纏め始めた。荷造りを終えると、そのトランク一つを掴み、自室を出た。
だが、すぐに戻ってきたマリアは、机の上に出しっ放しだった件の手紙を手に取り、懐中にしまった。他者に読まれるとまずい内容との判断だろうか。
改めて部屋を見渡し、室内の状況を確認すると、今度こそマリアは部屋の電気を消して出ていった。
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