第十二話 疑惑と追跡
カーテンを通す日の光もかなり陰っていた。
もうすぐ、夜の帳がロンドンの街を覆うだろう。〝切り裂きジャック〟が動き出す夜が訪れるのだ。
昼食時に宣言した通り、夕方の五時を回った頃、何かの気配が身体を、そっ、と触れていくような感覚に、マリアは目を覚ました。本当はもう少し前から目覚めてはいたが、息を潜めて、この感覚をずっと待っていたのだ。
これはランドが起き出し、部屋を出た証だった。
眠る前にエリスに頼んだのはこれだった。ランドが部屋を出た時、マリアに触れるような感覚で気が付くように教える結界をエリスに張ってもらっていたのだ。
(ん?)
ランドが自分の部屋の前でじっとしていた。探知型の結界に、通常との違和感を覚えたのか、それとも、こちらの気配に気付いたか?
ベッドでマリアがさらに息を殺すようにしていると、ランドはどうやら、他の部屋の者たちの様子を窺っていたものらしい。
部屋にいるのか、いないのか――。
いれば、今は何をしているのか――。
それを部屋越しの気配で確かめることが彼に可能なのかはともかく、やがてランドは安心したのか、教会の出口へと向かった。
マリアは部屋を出た。いつもの衣装だった。
と、マリアと同時にエリスも部屋を出てきた。マリアが頼んだものと同じ結界を自分の部屋にも仕掛けていたらしい。困惑するマリアを見ると、多少の悪意を含んだ笑顔で微笑んだ。
「だって、ほら……、面白そうじゃない。ランドを
「はあ……。どうせ、断っても付いてくるのでしょうから認めますが、気付かれないようにしてくださいよ?」
「分かってる、分かってるって。任せてよ」
と、エリスはどこからくる自信なのか、掌をヒラヒラさせながら言った。その様はさながら、〝おばさん〟のようだとマリアは思った。
そんな風に自分が思われているとは露ほども知らず、エリスはマリアを引っ張るように、教会を出た。
先に出たランドはもう、四、五十メートルほども前を歩いている。気取られないように人混みに紛れて後を追う。
向こうもプロだ。
近付き過ぎると気付かれる。無闇にこれ以上は距離を詰められなかった。
「どこへ行く気だろ?」
「分かりませんね」
後を追けてみると、ランドは夜の街をただ、ぶらぶらと散策しているようにも見えた。やがて、問題のホワイト・チャペル界隈に出た。そこで複数の街娼と何やら話し込んでいたランドは、その中の二人の女の肩を抱き、近くの建物へと入っていった。
「やっぱり……」
「まだ、
「それはそうだけど……」
彼女らとて、何も好き好んで街娼などやっているわけではあるまい。貧しい生活で、手っ取り早く稼げるからであろう。まだ女性の立場や権利の弱い時代である。同じ女である二人は複雑な思いでそれを見ていた。
「と言って、黙って見ているだけでは、何かあった時に間に合いませんしね。さて、どうしたものか……」
娼館と思しき建物の中に入るわけにもいかず、ランドが出て来るのを待つ以外に有効打がない状況に、マリアもエリスも思案顔だった。
焦れながら待つこと、およそ一時間。
ランドが出てきた。街娼の女の一人も一緒だった。べったりと寄り添い、ランドと腕を絡ませていた。今回はただの女遊びだったようだ。
だが、一度ぐらいでは信用出来ないのもまた事実だった。前を行くランドの後を、二人はまた追い始めた。
しばらくした頃に、マリアが先ほど見た光景に、どこか違和感を覚えた。
何か、違う――。
何か、見落としている――。
「あっ!」
「ちょっ……、どうしたのよ!?」
「娼館に戻ります。先に行っててください」
小さく叫んだマリアはエリスの声を後に残して、あの娼館付近に戻った。それから、先ほどランドと共にした二人の街娼を探した。辺りにいた街娼仲間に聞くと、ランドと出て来た一人は再び娼館に戻ってから、もう一人は最初に入ったまま、まだ出て来ないと言う。
「ちょっと! あんた、どこ行くのさっ!?」
別の娼婦仲間の制止を振り切り、マリアは単身、娼館に入っていった。口々に非難する周りの雑音を無視し、あの女を探す。
いた――。
その娼婦は首に
マリアは女が振り向く前に近付き、素早くスカーフを奪い取った。
やはり、
女の首筋に、二つの穴。吸血鬼の牙の痕。
女は咄嗟に首の傷を手で隠したが、無駄だと分かるとマリアに掴みかかってきた。
マリアは冷静に横をすり抜ける。その右手には剣が握られていた。数歩進んだ女の首がずるりと落ちた。そのままさらに二、三歩進んだ女の身体が倒れ込んだ。
それらを確認するとマリアは、ランドと女たちが入ったはずの部屋を探した。
女の一人は外の廊下に出ていた。その女がいた辺りの、鍵の掛かっていない部屋を手当たり次第に開けていく。三つ目の部屋を開けた時、ランドと入っていったもう一人の女がベッドの上に仰向けに倒れているのが見えた。
マリアは近付き、女の状態を確認した。
女の首はナイフやメスで切ったように、ぱっくりと裂けていた。ベッドのシーツは溢れた血でぐっしょりと濡れていたが、それでも本来溢れ出す量よりは明らかに少ない。おそらく、ランドに
部屋を出たマリアは、周囲が騒ぎ出す前に娼館を出た。
顔を見られているが、なに、人の記憶というものは曖昧でいい加減なものだ。それに娼婦たちがスコットランドヤードに協力的かどうかも怪しい。
心配はいらないだろう、とマリアは判断した。
角を曲がった辺りで、後にした娼館で騒ぎになり出したが、当のマリアはすでに、かなり離れたところまで歩いていた。そのままランドを追けているであろうエリスに追いつくべく、歩を進めた。
サポート役だと自らを評していたエリスのことだから、無闇にランドに近付いたり、自分から討って出たりはしないだろう。だが、相手が吸血鬼であったとなればランドの方が尾行に気付くかも知れない。予断は許されない状況は変わっておらず、楽観は出来なかった。
ふと、路地の端に目をやると、淡く発光する球体状の光源があることに気付いた。大きさは拳ほどだ。マリアが近付くと輝きが強くなった。試しに、距離を置くと光量は淡くなった。どうやらこれはエリスが、マリアだけに反応するように仕掛けた道標のようだ。道の先に目を向ければ、数十メートルごとに同様の光源が淡い光を放っている。
エリスの配慮に感謝しつつ、マリアの足取りは自然と速くなっていった。
ランドを追いかけるエリスは度々、マリアがすぐに後から追いかけてくると信じて、マリア専用の道標を所々に仕掛けていた。マリアだけに反応する仕掛けを組み込んだ光球のようなものだ。
「早く来てよ。マリア」
自然と、そう小さく呟いていた。自分の持っている能力は戦闘向きではないと自覚しているためである。だからこそ、ランドを追跡するだけにとどめ、マリアの到着に期待してマーキングをしているのだ。
先を行くランドを遠くから見れば、細い脇道へと入っていく。エリスもその脇道の入口に道標を仕掛け、後を追った。狭い路地を抜けると、周りが建物に囲まれている広場状の場所へ出た。
「ようこそ、エリスさん。それとも、今晩は――でしょうか?」
と、待ち構えていたランドが帽子を取って、挨拶を寄こした。
「おや? エリスさんお一人ですか? マリアさんも追って来ていると思っていたのですがね」
「マリアは、あんたがしたことを確認しに行ったのよ。すぐに来るわ」
エリスは二人で追っていたと悟られていたこと、ランドに誘い込まれたことへの内心の動揺を見透かされないようにしながら、マリアがそこまで来ているとハッタリをかました。それを聞いたランドは帽子を被り直し、
「そうですか。やっぱり、ね。あの
と、言いながら、片手を振った。同時に、エリスが自身の周りに防御結界を張った。ギシッ、と空気が軋む音がした。僅かに、周りが衝撃に揺れた。間、一髪のタイミングで結界が間に合ったのだ。
「ほう、なかなか堅い。いや、いい結界ですねえ」
ランドが口元に微笑を湛え、そう評した。
「しかし、どれだけ持ちますかね?」
言うや否や、ランドは人差し指を立てた手首を何度も振った。
それに伴い、カキン、カキンと結界に何かがぶつかる音が続いた。その都度、エリスの周りを風が唸る。何度目かの音がしたとき、革製の上着の肩口が裂けた。身体にまでは達していなかったが、結界を突破したのだ。今度は左の上腕部が裂けた。
ランドは自らを〝風使い〟だと言い、その操る風は〝かまいたち〟のようなものか、とマリアが問うていた。
これがそうか、とエリスは思い返していた。このままでは、いずれ切り刻まれることになる。
打つ手はあるか――とエリスが焦れ出した時、
「どうしたい。えらく難儀してるじゃないか」
と、背後から突然、声を掛けられた。首を回して見れば、ウィリアムが不敵な微笑を浮かべた顔で、仁王立ちになって背後にいた。その後ろには、トーマスもいる。トーマスは帽子に手をやり、挨拶代わりに頭をちょこんと下げた。
エリスは喜色を浮かべた。ここでの援軍は実にあり難い。これで三人対一人だ。状況は一変する。それに追っ付け、マリアも駆けつけよう。そうなれば、四対一になる。なおさら有利な状況と言える。
「ウィリアム! トーマス! 犯人はランドよ!!」
「ああ、知ってるよ」
不敵な顔は変わらず、ウィリアムはエリスを見つめたまま、手にした鉄槍を振り上げた。横薙ぎにしようという構えだった。ウィリアムの後ろにいるトーマスも、彼の行動に困惑した様子はない。
「えっ……!?」
ウィリアムの標的が自分だと気付いたエリスだったが、咄嗟には反応が出来なかった。
「あばよ」
「!!」
ウィリアムの終幕を宣言する声に、エリスは自身に襲いくる衝撃を想像し、つい眼を閉じてしまった。
ガンッ――。
重い物がぶつかる音が響いた。
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