第二十七話 決着
ミケーレが疾った。あっという間に数メートルの距離を詰めた。〝怪物〟が黒衣の内側から、あの突起状の物体を二本、突き出した。その二本の隙間に身体を滑らせ、ミケーレが肉薄する。〝怪物〟に後退する暇も与えず、抜き打ちの銀光が一閃した。
〝怪物〟の首がゆっくりと滑り落ちた。黒衣の身体が倒れる。ミケーレはすでに納刀していた。ミケーレは数歩後退し、様子を窺う。
〝キリストの肝臓〟を喰らって力を得たという割には、拍子抜けするほどあっさりと〝怪物〟は斬られた。
それが不自然で、ミケーレは倒れた〝怪物〟をじっと眺めていた。マリアも同じだった。訝しんでいるのだ。
しばらく見ていると、黒衣の内側が、ざわざわとし始めた。何かが蠢いているような感じだった。無数の何かが、〝怪物〟の黒衣を押し上げ、表に出ようとしていた。
黒衣を破り、どっ、と溢れ出したのは触手だった。イソギンチャクの触手――がぴたりとイメージに嵌る。サイズの大きなイソギンチャクだ。
無数の触手が〝怪物〟の身体を中心に拡がり始めた。触手が増殖し出したのだ。〝怪物〟自身を飲み込み、見る間に直径三メートルに範囲が膨れ上がる。
どうやら、あれは周辺の物を喰らって増殖しているらしい。
ミケーレとマリアは距離を取った。試しに――とマリアが投げナイフを一本投擲してみるが、ナイフを飲み込んだ触手には何の変化もない。そもそも、どこを狙えばいいのか。
マリアは息を吐いて、
「やっぱり、効果なし……か」
「あれも〝肝臓〟の効果か?」
「さあ? そう……なのかな」
ミケーレの問いに、マリアは肩を竦めて見せた。
触手はさらに拡がりを見せ、横たえられていた沙月をも飲み込んだ。流砂に埋もれていく、または、水に沈むかのように触手に飲まれていく沙月に、ちらと視線を送ったミケーレは何を思ったのか。
「こいつはもっと拡がると思うか?」
「その可能性は高いでしょうね」
「触れるもの、すべてを喰い尽くして?」
「多分……ね」
マリアの見解は、ミケーレの推測でもあった。
〝怪物〟はこの世のすべてを憎んでいた節がある。世界そのものを喰らい尽くして、滅ぼそうとしても、不思議ではない。あの触手はその望みが、喰らった〝キリストの肝臓〟を通じて具現化されたものなのだろう。
ミケーレは、やれやれ、と大きく息を吐いた。それから、しょうがねえなあ……と呟き、
「みんなは逃げ終えたか?」
と、マリアに確認した。
「ええ。残ってるのは、私たちだけよ」
とのマリアの返事に頷き、
「なら、いいか。マリア、こいつを預かっといてくれ」
「えっ?」
戸惑うマリアに、拳を突き出した。反射的に出したマリアの掌の上に、月明かりを映した、あのロケットが転がった。ロケットを見つめるマリアに、ミケーレが続けた。
「もし、俺が暴走したら、お前さんが止めろ。マリア」
その言葉を聞いて、マリアがミケーレの腕を掴んだ。ミケーレの顔を見詰め――、だが、何も言わずに押し黙った。何と言ったらいいのか、分からない。そんな
「もしもの話だよ。そん時ゃ、俺に触れないで殺せ。そんな芸当――、マリアにしか出来ないだろ?」
そう言って、マリアが以前に投げつけたナイフを渡した。あの夜の物だ。その数、四本。マリアは黙って受け取った。何も言わないが、マリアの憂いが深くなった。
それを見たミケーレは、マリアの頭に手を乗せた。子供にするように、優しい微笑を浮かべ、金色の髪をくしゃくしゃにした。俯いて、ミケーレにされるがままになっていたマリアだが、
「死なないで……」
と、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
「うん?」
「死なないで……」
もう一度、さっきよりは大きな声で言った。ミケーレに縋りつき、顔を上げた。眼には涙が溢れていた。今にも涙が零れ落ちそうな瞳で、ミケーレを見上げた。
「あなたが死んだら、今度こそ私は独りぼっちになっちゃうじゃない! そんなのは嫌よ……」
最後の方はまた、小さな呟きになっていた。ミケーレは困ったような顔をして、
「これはまた……。告白みたいだな」
「そうよ……」
「うん?」
「沙月と話をしてて、それで気付いたの。私は、ミケーレが好き」
マリアの頬を涙が伝った。
「あなたが好きよ、ミケーレ。ずっと前から……。いえ、出会った時から、あなたのことが好きよ」
「そうか……。……うん、ありがとう、マリア。こんな俺を、好きだと言って、泣いてくれる
積年の想いを告げるマリアの瞳に溢れる涙を、ミケーレは優しく指で拭い、微笑んだ。
「それにな。別に、死ぬ心算はないんだぜ? だから……さ。そんな顔はするな」
「……ん」
涙を拭われながら、マリアが頷いた。
「さ……。少し、離れてろ」
ミケーレはそう言ってマリアに背を向け、元〝怪物〟に向かって、数歩進んだ。
それから、左腕の袖を肘まで捲り上げる。刀を抜き、それを左肘に当てた。そして、何とそのまま、刀身を引いた。肘から先が、ぼとりと落ちた。滝のように、血が噴き出す。ミケーレは落とした左腕を拾い上げた。その切り口からは、なおも血が零れている。それを顔の上に掲げるや、零れる血を飲み出した。嚥下する咽喉が大きく動いている。ごくりごくり、と飲み干す音が響く。
腕から流れる血の量は弱くなったが、左腕は肘から先しかないのに、未だ、血が溢れてくる。飲むのが間に合わず、口から零れ出すほどの量が、肘までの腕から出続けるのだ。
ミケーレの顔が、零れた血で赤く染まっていた。
やがて――。
在り得ないほどの量の血を飲み干したミケーレが、左腕を肘に当てると、腕は繋がった。手を離しても、腕は落ちなかったのだ。
ミケーレはそのまま、〝怪物〟の触手に向かって歩き出した。触手の目前まで行っても、歩みを止める気配はない。
〝怪物〟は餌がやって来たとばかりに、五本、十本と触手を伸ばした。絡め取ろうというのだろう。
それに対して、ミケーレは腕を振った。素手を、ただ平手で振ったのである。ミケーレの平手に触れた触手が消えた。文字通り、掻き消すように消滅したのである。地面に描かれた砂絵を、手で均した様に似ていた。
先端から途中までを掻き消された触手が、慌てて引き戻された。どうやら、痛みは感じるらしい。ミケーレから距離を取り、どうしたものか――と、寄せては退いてを繰り返して様子を窺うように波打っていた。明らかに戸惑っている。
ミケーレがさらに触手の輪の中に踏み込んでいく。すでに直径五十メートルを超えていた触手の中央を目指して躊躇なく、ずかずかと進んでいく。腕だけでなく足や胴など、部分にかかわらず、ミケーレに触れた触手は例外なく、消滅した。
触手同様に喰らっているのか、それとも、無と帰するのか。
自らを凌ぐ浸食に対し、触手にミケーレの進攻を防ぐ術はなかった。
「ハハッ!」
顔は血に塗れ、遠くからでは、その表情までは分からない。だが、零れ聞こえる声からすると、やはり笑っているのか。
「ハッ! ハッハハ!!」
いつもとは違う、狂気を孕んだ笑い声であった。
「あの人、大丈夫ですか?」
ミケーレを見つめていたマリアが、不意に声をかけられて、驚いたように振り向いた。全く気付かなかったからだ。いつもなら、そんなことはあり得ないが、今のは完全に不意を突かれた。それほど、ミケーレの動向に注意を払っていたのだ。
声をかけたのは、先ほどマリアが抱えて助けた隊員だった。他の者は触手から遠く離れたか、とっとと逃げ帰っていたが、彼は恩人のマリアが気になって、一人だけ引き返したのだった。
心配そうに覗き込んでくる彼に、マリアは心中の不安を覆い隠すように、精一杯、笑顔で返した。
「ええ、多分」
「そうですか? なんか、さっきまでと雰囲気が変わってますけど……」
「私は見たことがないけれど、ミケーレは以前に二回ほど、ああなったことがあるらしいわ。一度は大暴れしたそうよ。どうやって、元に戻ったのかは言わなかったけれど。後の一度は何とか治まったらしいわ。そんなことがあったから、彼は自分の血が嫌いなのよ」
「血が嫌い……って、吸血鬼なんでしょ?」
隊員がどういうことか、理解し難い――と言った顔でマリアを見た。
「彼は元々、血を吸わないから」
マリアはミケーレを見ながら、そう言った。
ついに触手の中央に到達したミケーレは、そこで屈み込んだ。手を伸ばすと、触手の発生源である〝怪物〟の身体が現れた。さらにその身体に腕を突っ込み、何かを探るような動きを見せた。しばらくして、抜き取った手には、何か肉の塊のようなものが握られていた。それを抜き取られた途端、〝怪物〟から発生した触手が、動きを止めた。それどころか、拡がりを見せていた触手が、見る間に縮んでいく。依り代であった〝怪物〟から肉塊が失われたことで、触手が収縮し始めたらしい。
やがて、触手はすべて消滅し、〝怪物〟の身体も、急速に本来の歳月を経たことで崩れ落ち、塵と化した。すでにミケーレに首を落とされており、力の源であった〝キリストの肝臓〟を抜かれたからであろう。
触手が一度は飲み込んだせいか、芝生も根こそぎ吸収されて、土の地面が剥き出しになっていた。死亡した隊員たちも、パオロも、ジル・ド・レエや〝人形使い〟、そして沙月の姿もどこにも残っていなかった。
ただ、月が辺りを照らす深夜の静かな公園に、ミケーレがぽつりと立っているだけであった。
ミケーレは手にした肉塊――〝キリストの肝臓〟――を高く掲げた。大きく口を開き、飲み込もうとした。肉塊を喰らった〝怪物〟がどうなったのかを知ってなお、それを喰らおうというのか。
「ミケーレ!」
鋭いマリアの声とともに、光る物がミケーレに向かって飛んだ。ミケーレは振り向きざまに、左手で飛来した物を掴んだ。肉塊を掲げていたミケーレの動きが止まった。腕を降ろし、左手の物を見つめた。投げナイフが飛んできた――と思っていたようだが、手の載っているのは、あのロケットであった。ミケーレは静かにロケットを見つめ続け、そして、右手の肉塊を見つめた。それから、大きく息を吐いたミケーレは、右手に載せていたそれを握り潰した。
マリアに向かって歩き出したミケーレが止まった。そこは沙月が頽れた場所だった。沙月の姿はもう残っていないが、確かにそこだった。ミケーレはしゃがみこみ、左手のロケットをそっと地面に置いた。
「助けられなくてすまなかったな、沙月。これは手向けだ。
arrivederci――イタリア語で〝さようなら〟――ぽつり、とそう言って、ミケーレは立ち上がった。
ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくるミケーレの顔を見たマリアが、安堵して眼を閉じた。それから、隣にいた彼を見て、
「教会本部に連絡を。すべて終わった――と。事後処理班の要請をお願いします」
「あ、はい。了解しました」
「今回の件で被害に遭われた方々のご遺族には、特に厚いケアを……と」
「はい。了解です」
こちらを見るマリアの顔が心底、嬉しそうなのを見て、彼も何だか嬉しくなった。だが、ミケーレに向かって駆け出して行くマリアを見た時、彼は自分が失恋したのだと知った。
マリアが駆けてくるのを見たミケーレは、立ち止まった。マリアの嬉しそうな顔を見ると、つい口元に笑みが浮かんだ。それから、思い出したように、服の袖で顔を拭った。まだ所々、血がこびり付いていたが、今まで血塗れだったことを思えば、ずいぶんとましになった。
立ち止まると思っていたが、マリアはそのまま、ミケーレの胸元に跳び込んできた。
「お……!」
ミケーレは慌てて、抱き止めた。
「おいおい」
腕の中のマリアに、ミケーレが呆れ顔で声をかけた。マリアがこんなことをするとは思ってもみなかったのだ。胸に顔を埋め、マリアが回した腕に力を込めた。想いの丈が詰まった抱擁であった。
顔を埋めたまま、
「良かった。ミケーレが帰ってきてくれて……本当に良かった」
と、言った。ミケーレも、
「ああ、ただいま。マリア」
と、答えた。マリアは顔を上げた。少しだけ、悪戯っ気を含んだ顔で、
「ところで、ミケーレ。私は告白したんだけど、その……まだ、返事を聞かせてもらってないのよね」
と、微笑んできた。
「ああ、そう……だな。うん……」
ミケーレは天上の満月を見やった。どうやら、照れているらしい。どう答えたものかと、少し考えた後、マリアを見やり、
「俺も……だよ、マリア。俺もマリアを愛してる。これからも、ずっとだ」
と、言った。マリアは微笑んだ。ぽろぽろと涙が零れた。
「ま、及第点……かな」
「相変わらず、容赦がないな」
ミケーレは苦笑を浮かべ、また夜空を仰ぎ見て、そう言った。
そして――。
月明かりの下――。
二人はどちらからともなく、唇を重ねた。
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