第二十六話 沙月
「邪魔だ……! どけっ!!」
パオロが沙月に向けて、言い放った。パオロの進路上にいた沙月が黒衣の男に背を押され、こちらに向かってきたからである。邪魔ならば、自分が避けたり進路を変更すれば済むものを、相手にそう命じてしまうところが、もうすでに普通の精神状態でないことを物語っていた。
思考が破綻しているのだ。
沙月にしてみれば、パオロのほうこそ、ミケーレのところへ行くのを遮っている邪魔者であった。沙月の中で、怒りの感情が沸々と湧き上がってきた。
なぜ、この男は邪魔をするのか――?
とうとう、二人はぶつかる寸前――、一メートルの距離もなく、対峙した。手を伸ばせば届く距離だ。パオロは手にしていたベレッタM九二Fの銃口を、沙月に突きつけた。
「どけと言っているっ!!」
口の端で泡状になった唾を飛ばす勢いで、パオロは喚くようにそう言った。気持ちに僅かの余裕もないのだ。ほんの些細なことでも、拳銃の引き金を引きかねない状態だった。
一方の沙月は茫洋とした表情のまま、両手でパオロの顔を包み込むように、彼
に手を伸ばした。
「な、何だ……!?」
意外な行動を取られたパオロが戸惑っていると、沙月はパオロの頬に手を当ててきた。それがあまりにも緩やかな動きだったので、パオロも払い除けたりせずに、されるがままであった。
沙月の顔が近づいてくる。頬に添えられた手が凍えたように冷たいことにも、パオロは気が回らなかった。だが、先ほどまでの不安と恐怖を思い出したのか、
「よ、寄るな……!」
と、銃口を沙月のこめかみに向けた。
「やめろ!!」
ミケーレが何時になく、鋭く叫んだ。
それは、パオロに対してだったのか。それとも――。
ミケーレが二人の傍で、立ち止まった。パオロは足元に横たわっていた。彼の眼は見開かれたままだった。すでに息はない。沙月に咽喉元を喰いちぎられたのだ。自らの口元から胸元までをパオロの鮮血で緋色に染めた沙月が、ミケーレを見た。まだ少し、茫洋とした瞳であった。
「ミケーレ……」
沙月が小さな声で呼んだ。感情が溢れてくる。まだ知り合って、たったの三日だが、とても愛おしかった。会いたくて、仕方がなかった。
「会いたかった……」
「そうか」
近づいてくる沙月に、ミケーレが静かに答えた。目前に来た沙月は手を伸ばし、ミケーレの頬に触れようとした。沙月の手が触れた。パオロの時とは違って、愛おしそうにミケーレの顔を包んだ。
その身体が揺れた。
沙月の背から、刀身が突き出していた。
左腕を沙月の背に回し、優しく抱きとめ、そして――右手の一刀で心臓を貫いたのだ。
「ご……ぶっ……」
と、沙月の口から血泡が零れた。一刀は肺をも貫いていたからだ。
無表情なミケーレの左の頬に、一筋の血が流れていた。触れていた沙月の指が、深く食い込み、抉ったのだ。
流れる血は、涙のようだった。
ミケーレが血の涙を流し、泣いているように見えた。
「ミ……ケーレ……」
途切れ途切れに、沙月はミケーレの名を呼んだ。沙月は自分の身に起きたことを飲み込めていないようだった。やっと、
「どう……し……て……?」
と、消え入りそうな声でそう言った。ミケーレの表情には、微塵も感情は浮かばなかった。ただ、能面のように、無表情なまま、
「ごめんな。もう、沙月を元に戻してやれないんだ」
と、沙月に告げた。二人から少し離れた後ろで、マリアが立ち尽くしていた。沈痛な面持ちで、俯き加減に二人を見つめている。
沙月はパオロを殺し、本意ではなかったにしろ、その血を口にしてしまった。吸血鬼に血を吸われ、自らも血を啜った者は、大本の吸血鬼を殺しても、元の人間には戻らない。戻れないのだ。
その時点で、ミケーレならこうするだろう――とマリアには分かってしまった。
また、ミケーレにそんな思いをさせてしまった。マリアは自分の不甲斐無さに、唇を噛み締めた。
崩れゆく沙月を、ミケーレはそっと横たえた。僅かに沙月の顔を見つめると、
「
イタリア語で、〝お休み〟――と、声をかけた。それから、立ち上がり、黒衣の男を見た。お気に入りの娘を殺された男もこちらを睨めつけていた。
悪鬼の如き形相で。
あの眼で――。
血走った真っ赤な――ありとあらゆる全ての負の感情に塗り固められたような眼で――。
〝怪物〟がそこにいた。
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