第十三話 マリアの秘密
部屋に戻った沙月は、今日の講習の復習をしていたが、さっぱり、身が入らなかった。ミケーレの言ったことが気になっていたのである。
ミケーレの言った言葉。
〝恨まれている〟――とミケーレは言ったのだ。
〝憎まれている〟――と。
二人のマリアに――。
そのことに考えが及ぶと、勉強に手が付かなかった。二時間ほど、悶々とした気持ちでいたが、心が定まったように沙月はパタンと教科書を畳むと、やおら立ち上がった。
勉強のために、トレーナーにジーンズと楽な格好に着替えていたが、壁に掛けてあった濃緑色のダッフルコートを掴むと、その上に羽織った。スニーカーを履いて、家を出た。
目的地はマリアのいる教会であった。
どうしても、マリアと話がしたくなったのだ。ミケーレへの憎しみを解く――などと御大層なことが、自分に出来るとは言えない。言えないが、せめて、その理由が知りたかった。
なぜ、恨んでいるのか――。
なぜ、憎んでいるのか――。
日没が早くなった晩秋の夕暮れを、沙月は登校時よりも速い足取りで学校へと戻った。無意識のうちに速足になっていた。そのせいか、家を出てから、二十分ほどで学校に到着した。
校門に据えられている時計柱を見れば、時刻は午後五時を十五分ほど過ぎている。正面では警備員のおじさんが、半分だけ校門を閉めていた。来校を告げておかないと、門を完全に閉められて、帰れなくなってしまう。
「すみません。教会に忘れ物をしちゃったんです。まだ、いいですか?」
と、沙月は訪問理由をでっち上げた。あながち、全部が嘘というわけでもない。マリアに、ミケーレの邪魔をした理由を聞き忘れた――のだ。
「ああ、生徒さんか。もう門を閉めるよ。ここが閉まってても、教会なら勝手口から出れるから」
と、言ってくれた。
正門、裏門のほかに、教会には勝手口があり、宿舎から出入りが可能となっていた。元々、教会があり、それに沿う形で出来た学園であるので、宿泊者に便利なように拵えられているのだ。これがないと、閉校時に買い出しやらが出来なくなってしまうからである。
「分かりました。じゃあ、そっちから帰りますね」
「ああ。こっちは閉めるから、そうしておくれ」
沙月は警備員に断ると、教会に向かった。
教会の宿舎には、マリアがいた。
ミケーレが出て行ってから、すでに三十分以上が経っていた。ミケーレと街で落ち合う約束は、午後六時半だ。それまでの間、ミケーレが街をうろつき、〝怪物〟側の誰かを見つけるもよし、また自身を囮として、向こうが食いついてくるもよし――という、ざっくりとした手筈である。
向こうの手勢がどれほどいるのか分からない現状では、出来るのはそんなところだろう――ということで話がまとまったのだ。
ミケーレを
二人の能力に依存するところが大きい策なのが、正直、不満ではあったが――。
そろそろ出かける用意をしようか、と思っていたところに、教会の扉が開かれる重い音が聞こえた。沙月が訪れたのである。
「あら? どなた?」
そう言って、宿舎側から出てきたマリアは、沙月を認めた。
「沙月、どうしたの?」
「すみません、マリアさん。こんな時間に」
「それは構わないけれど。何の用かしら。また、ミケーレのこと?」
そうマリアに言われた沙月は、顔に血が上るのを感じた。〝ミケーレ〟という言葉が出てきたからだ。頬が紅くなっているのではないかと思った。
「いえ、ミケーレじゃなくて……、マリアさんのことで」
「私の?」
沙月の返答に、マリアは美しい柳眉を寄せた。ミケーレのことならともかく、沙月がマリアのことを聞きたい――というのは、当のマリアにすれば、意外な答だったのである。
「そう。私の何が聞きたいのかしら? まあ、こちらにいらっしゃい」
と、沙月を宿舎へ誘った。沙月は素直に従った。
「何か、飲む?」
「いえ、結構です」
と、沙月は答えたが、構わずマリアは台所へ向かい、すぐに急須と湯呑を二つ載せたお盆を持って現れた。
「どうぞ」
と、沙月に席を勧め、自分も座った。それから、
「ほうじ茶だけど」
そう言って、二つの湯呑にお茶を注いだ。日本茶とは、意外な選択だった。辺りに焙じた茶葉の香りが漂った。沙月は落ち着いた気持になっていくのを感じた。
「いい香りですね」
沙月の感想に、マリアは優しく微笑んで、
「はい、どうぞ」
と、沙月に湯呑を差し出した。両の手で大事な物を包むようにして受け取った沙月は一口飲んで、
「あ、美味しい」
と、言った。沙月はこれほどに、ほうじ茶が美味しいとは知らなかったのだ。
「そう。良かった」
沙月の反応に、マリアは嬉しそうにそう言って、自らもお茶を啜った。それから、
「私の何が聞きたいのかしら?」
と、言った。沙月は一瞬、躊躇った後、思い切って尋ねた。
「あの……。……。ミケーレを〝恨んでる〟――って聞きました」
逡巡しながらも沙月が放ったその問いに、二口目を飲もうとしていたマリアの手が止まった。無言のまま、改めて手が動き、マリアはもう一口、ほうじ茶を含んだ。マリアはそっと湯呑を置き、
「そう。聞いたのね」
と、ぽつりと言った。とても寂しげな呟きであった。
「あ、あのっ……、ミケーレが、『俺は恨まれてる』――って。マリアさんのご両親を殺したから――って……。何故かは言わなかったんです……けど……」
言いながら、沙月は何を言っているんだろう、と思った。そんなことに自分が踏み込んでいいのか、と自問している自分に気付いた。
「そう」
もう一度、ぽつりとマリアが呟いた。それから、
「それは事実だけれど、ミケーレは私の〝恩人〟でもあるのよ」
と、言った。
「恩人?」
「そう。私はミケーレに命を助けられたのよ」
静かにそう告げるマリアの言葉を、沙月は不思議な思いで聞いた。恩人である――というミケーレを、恨んでもいる――というのだから、矛盾しているではないかと思ったのだ。
「どういうこと……ですか?」
「私が九つの時にね、父が吸血鬼になったの。何処かの吸血鬼に噛まれたのね。その父が母を噛んで、吸血鬼にした。で、その吸血鬼になった両親が揃って、私に襲いかかってきたわ。あわやという時に助けてくれたのが、ミケーレよ。彼は
マリアは淡々と話しているが、それは戦慄すべき内容であった。一つの村の住人全てをミケーレが殺した――というのだから。
「父は義父でね。母は十七歳の時に数日だけど行方知れずになったことがあって、その時に私を身籠ったそうよ。だから、実父は何者なのか分からないの。父と母は幼馴染でね。小さな村だったから、〝独り身で身籠った〟とか、そういうことには風当たりが強くて、周りからは相当、反対されたらしいけれど、父はそんな母と添い遂げたわ。優しい人だったのね。両親は二人とも褐色の眼と髪の毛だったから、明らかに私とは違うわよね。きっと、そのことで周りから色々と言われたと思うわ。私のせいで、いらぬ苦労をしたはずよ。それでも……。本当の父ではなかったけれど、私をとても可愛がってくれたのよ」
想い出を懐かしむように、マリアは話した。
「そんな父を、母をミケーレは殺した。いえ、ミケーレに非はないわ。そうするしかなかったのだからね。私がミケーレを恨む筋合いではないのよ。そんなことはとっくに分かっているのよ」
それは昔話か、独白か――。
マリアは湯呑を見つめ、話を続ける。
「頭では分かっているの。ただ……ここがね。まだ、納得していないのよ」
と、マリアは胸に手を当てて、そう言った。沙月はあることに気付いて、眼を見開いた。その言い方、仕草はミケーレに似ていたのだ。
「ミケーレは助けた私を、ある枢機卿に預けたの。その当時にはもう、ミケーレはヴァチカンにかなり顔が利いていて、だからこそ、有力な枢機卿を私の後ろ盾にしてくれたのよ。私が迫害されないように……ね。もっとも彼は、顔は利くけれど、同時に忌み嫌われてもいるのよ。何せ、吸血鬼だからね。教会総本山を、吸血鬼が平気な顔して歩き回るのよ。苦々しく思う者も多いわ。それは私も同様。吸血鬼が連れてきた娘ですものね。だからかな。ミケーレは預けた私が馴染めているかも心配だったのかしらね。ヴァチカンに来る度に、訪問してくれてたわ。そのことにも、とても感謝しているわ」
その後、マリアは能力を買われ、異端審問会に所属することになったのだ――と語った。
「――なのに、ミケーレを恨むのは筋違い。ただの逆恨み。でも、ミケーレはそんな私を受け入れて、相手をしてくれているわ。……敵わないわよね」
これで私の話はお仕舞い――とばかりにそう言って、困ったような笑顔でマリアは自嘲した。
黙って話を聞いていた沙月は、ようやく口を開いた。
「いつか……、ミケーレを許せるんですか?」
「もう許しているのよ。あとは納得するだけ」
「だったら、いいんです。あんなに仲がいいんですもん。羨ましいくらいです。あの……」
「ん?」
急に、言葉尻を濁す沙月に、マリアは小首を傾げた。もじもじとしながら、沙月が言葉をようよう紡いだ。
「マリアさんは、あの……。ミケーレのことが、好きなんですかっ?」
「好っ……!?」
思いがけない質問に、さすがのマリアも動揺し、言葉を失った。
「い、いきなり、何っ!?」
話題が話題だけに、マリアでさえ、顔を紅らめ狼狽えている。その様は実に、見た目通りの女の子の反応だ。
「いや、だって……。付き合いも長いし……、好きなのかな……って……」
沙月がそう言うと、マリアは瞬時に落ち着いたのか、穏やかな顔付きになっていた。何も言わず、ただ、儚そうな、優しい微笑を浮かべるだけだった。それはとても脆そうで、触れるだけで、粉々に砕け散ってしまうような、そんな淡い微笑――。
それと同じ微笑を、沙月は見たことがあった。つい最近のことだ。どこで見たのか――と考えて、すぐに思い出した。ミケーレが同じ微笑を浮かべていた。
あれは――。
そこで、沙月は気が付いた。
そうだ、あの微笑は――。
気付いた途端に、沙月は胸の奥が、ちくりと痛んだような気がした。と、同時に、気が付かなければ良かった――とも思った。
あの微笑の意味に気付いたから、胸が痛むのだ。
この微笑の意味に気付いたから、胸が痛むのだ。
何も言わないマリアに、
「帰ります……」
ようよう、そう言って、沙月は立ち上がった。急にテンションの下がった沙月を心配して、マリアが尋ねた。
「どうしたの?」
「いえ、もう帰らなくちゃ……」
ぼうっとした口調でマリアにそう告げ、
「あ……。勝手口から帰るように言われてたんだ」
と、警備員に言われていたことを思い出した。すぐにマリアが事情を察して、
「こっちよ」
と、案内した。沙月は黙って従った。ところが、ドアを開けるやマリアは暗くなった外を見たまま、動きを止めたのだ。夜の闇を見通そうとしているように、通りの向こうにじっと目を凝らしていたが、すぐに、
「沙月。もう暗くなっているから、送って行くわ」
と、沙月に告げた。言われた沙月のほうが、予想外の提案に戸惑い、
「えっ?」
と、聞き返した。
「そんな……。いいですよ、一人で帰れます。大丈夫ですよ」
「いいのよ。出かける用もあったし……。少し待ってて。二分で支度するから」
そう言って身を翻し、ドアを閉めた。
まるで、沙月を外と隔てるように。
そこに沙月を残し、マリアは着替えに自室に向かった。修道着を脱ぎ捨て、下着だけになると、細身で瑞々しく、しなやかな肢体が現れた。グラマーとはとても言えないが、均整の取れた活発な印象を与えるスタイルであった。
それからタンスに近づき、取り出したのは黒いレザー製のつなぎであった。手早く着込むや、戸棚の引き出しを開け、あの投げナイフが十本、銃弾のように収まったベルトを斜め掛けに巻いた。さらに、二本の大小の棒らしきものを引き出す。それは鍔のない直刀の剣であった。どちらも柄の長さは二十センチメートルに満たないほどだが、鞘から推測できる刃渡りは長いほうで四十センチメートル、短いほうで三十センチメートル弱ほどはあった。
それらを肩から吊るし下げ、これもまた黒い、こちらはコットン製のロングコートで覆い隠した。足元はブーツに履き替えてある。
すべて実用本位の、機能面を最優先したファッションであった。
きっかり二分で自室から出てきたマリアの姿を見て、沙月は息を呑んだ。全身黒尽くめで、普通であればとても怪しい人物なのだが、それを着ているのが、透き通るような白い肌に金色の髪を持った美女である。ある種、妖艶な雰囲気を漂わせていた。
「さあ、行きましょうか」
美しくも修道女らしからぬマリアの出で立ちに言葉のない沙月にそう声をかけ、マリアは今度こそ、ドアを大きく開け放った。
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