第八話 再会
(行っちゃったんだ。まだ、お礼も言ってないのに……)
沙月は辺りを眺めた。
黒い影によって穿たれたアスファルトが、先ほどまでの事が現実であったことを如実に伝えていた。黒い影のあの眼を思い出すと、今でも背筋に冷たいものが流れるようだ。
彼が現れなければ、きっと殺されていたのだろう。
また、会えるかな――と、ぼんやりと考えながら、歩き出した沙月だったが、二、三歩進んだところで、視界の隅にキラリと光るものがあった。試しに、元のところまで退がってみたら、光が消えた。
どうやらその位置だけが、ちょうど光源に反射して見える位置らしい。
近寄って見れば、金属製の楕円形の物体で、サイズは三センチメートルくらいであろうか。手に取ったそれは少し燻んだ銀製らしきペンダント・トップだった。
年代物のようで、表面には細かい擦過傷が多数付いている。
ロケットであった。
そっと開けてみると、中はカメオ――貝殻に精緻な浮彫がされた装飾品――であった。美しく優しげな女性が彫られている。どうやら、聖母マリアを彫った物のようだ。
これほど美しい聖母マリアを、沙月はこれまで見たことがなかった。〝聖母の画家〟と称されるイタリア・ルネサンス期の三代巨匠の一人、ラファエッロ・サンティの絵画さえ凌ぐ美しさであった。
沙月はしばし、見惚れてしまった。
誰の落とし物か――。
もしかすると、彼の物かも知れない。そうであるなら、偶然にも、彼ですら気付かない位置に落ちたということだろう。
交番に届けようとも思ったが、こんな夜遅くでは、色々と面倒なことになる可能性もある。バイトで遅くなったことや、取得場所である路面の陥没痕のことなど、警官にいちいち説明するのも煩わしい。
明日の放課後にでも届けようと、沙月はとりあえず、それを持ち帰ることにした。
沙月はカメオをハンカチで包んで、ポケットに丁寧に仕舞い込み、自宅まで歩くことにした。ゆっくりと、考え事がしたかったのだ。
だがそこで、沙月は、はたと気が付いた。
考える――?
何を――?
自分でも判然としない気持ちを胸に、自宅に辿り着いたのは、三十分後であった。
夜遅くに帰り着いたにもかかわらず、沙月の家に明かりは点いていない。誰も居ないからだ。
母親は八年前に鬼籍に入った。身体が弱く、入退院を繰り返していた母だったから、それも仕方がない。覚悟はとうに出来ていた。
父の和彦は二年前から海外に単身赴任中だ。職場での立場上、転勤を断れなかった。以来、一人っ子の沙月が留守を預かっているというわけである。
もちろん、父は娘がついて来るものと思っていた。だが、沙月は一人でも大丈夫だから――と日本に残った。父の仕事の邪魔をしたくなかったのが一つ。それと、やはり長期に亘る海外での生活という、環境の大きな変化に尻込みをしたのである。ちなみに、沙月の英語の成績は及第点。得意とは言えなかったことも要因であった。
海外と日本で父と娘がそれぞれ生活するわけであるから、生活費は余計に掛かる。沙月は費用の足しにと遠縁の親戚が経営している飲食店で、週に三日ほどアルバイトをしていた。飲食店であるから、晩御飯は
「ただいま」
と、いつも通りに声に出して言った。誰も居ないと分かっていても、やはり、言ってしまう。習慣というやつだ。
リビングの電気をつけ、それから、風呂に湯を張った。湯が溜まるまでの間に、制服のポケットから、ハンカチを取り出して広げ、あのカメオを机の上に置いた。改めて、中の彫刻を見ると、溜息が出るような美しさだった。眺めているうちに、お湯張りが終わったことを知らせる音声が聞こえた。思っていたよりも、ずっと長い間、眺めていたようだ。
湯船にゆっくりと浸かると、やっと一息、吐けた気がした。
パジャマに着替えて、ベッドに横になると、猛烈な睡魔に襲われた。疲れがどっと出たようだ。
布団に潜り込むと、沙月はすぐに寝息を立てて、深い眠りに落ちていった。
翌朝、部屋に響き渡る目覚ましのアラーム音で目が覚めた。しばらくは、アラーム音に気付かなかったくらいだから、かなりぐっすりと眠っていたようだ。
洗面所で顔を洗い、台所で食パンを二枚、トースターに放り込む。パンが焼けるまでの間に、牛乳をマグカップに注ぎ、電子レンジで温めた。焼けたパンにバターとイチゴジャムをたっぷりと塗りたくった。ここは、『スタイルを気にしていて、ダイエットをしている』――などとは言わない。
食べるのならば、ガッツリと食べるのが、沙月のポリシーだ。
今日は土曜日で授業は半日だが、特別講習を取っているので、二時過ぎまである。いつもはお弁当を作っていくが、何となく、今日はそんな気になれなかった。手っ取り早く、学食で済ませることにしようと決めた。
着替えを済ませ、家を出た。
学校までは、徒歩でゆっくりと行けば三十分以上はかかる。慌てて行くのは嫌いなので、いつも早い目に家を出ている。
近頃は朝も冷え込むようになってきた。もっとも、清々しくもあるのだが。
公園の近くを通れば、ツツピー、ツツピー、と鳴いているのはシジュウカラだ。冬が近づき、街中に移って来たものだろう。ニー、ニー、と鳴いているのがヤマガラだ。キリキリ、コロコロ、ビーンと何羽も集まって鳴いているのはカワラヒワ。ピリリ、ピリリリリ、チー、チーチーと鳴くのはメジロだ。これらは街中にもよく現れる、都市部でも頻繁に見られる野鳥たちだ。
これら以外にも、スズメ、ハト、カラスや、ヒヨドリ、ムクドリといった種類の鳥なら、一年中、市街地で見かけることが出来る。
沙月が通っている高校は、『聖城(せいじょう)学園』というミッション系の私立高だ。さすがに、いわゆる不良と見られるような生徒は皆無である。そのあたりの指導は厳しいが、大体においては生徒の自主性が尊重された校風である。
学校が近づくにつれて、早い時間から登校する生徒の姿もちらほらと見受けられて、実に優良校らしい雰囲気がある。
沙月が校門の正面に来た時、背後から、
「
と、聞いたことのある声が聞こえた。また、これではっきりとした。昨夜の言葉は解らなかったが、これはすぐに解った。
イタリア語だ――。
振り向けば、昨日の彼が立って、沙月に向って陽気に片手をあげていた。人懐っこい笑顔で笑いかけている。着ている物は昨夜と同じであるが、どこへやったか、手に刀は携えていなかった。彼の顔を見て、沙月は胸の鼓動が速くなった気がした。
「また会ったな」
と、彼は片目を瞑って見せた。
「俺は、ミケーレ・ヴェッキオだ。よろしく」
完全に不意打ちである。沙月はもどかしいくらいに、何も言えなくなった。動揺して、頬が紅くなるのを自覚した。何とか、
「昨日の……」
と言えただけであった。果たして、どうやって沙月を見つけたのか、
「どうして……」
と、続けると、
「ん? ああ。ここを見つけるのに苦労したよ。その制服の学校を探すのにな。――で、だ。登校してくるのをずっと待ってたんだ」
言動から察するに、彼は昨夜、沙月が着ていた制服を覚えていて、それが一致する学校を、片っ端から探して回ったらしい。それから、ここで張り込んでいたようだ。
「一つだけ、聞きたいことがあってね。昨夜、何か拾わなかったか? これくらいの物だ」
そう言って彼は、親指と人指し指で三センチメートルほどの隙間を作って見せた。やはり、あのロケットは彼の物だったらしい。
「拾ったようだな。返してくれるかい?」
どうやら、表情に出ていたようで、沙月が答えようとした瞬間、
「彼には近づかない方がいいわよ」
と、銀鈴のような女性の声が横槍を入れてきた。
見れば、それはこの学園のシスターだった。女の沙月から見ても、美しい女性であった。胸元に少しの刺繍があるだけの地味な修道着姿なのに、とても華がある。
どことなく、あのカメオに彫られた女性を彷彿とさせた。
パッと見た感じでは、二十歳前後。大人びているようにも見えるが、まだ十代だと言われれば、そうとも見える。
すらりとした鼻梁に絶妙な眉の形。吸い込まれるような深みを持った、神秘的な碧い瞳。結ばれた唇は艶やかで、どこを取っても非の打ちどころのない面貌であった。髪はほとんどが頭衣に隠されているので見え難いが、僅かに覗く髪は美しい金色であった。
スタイルは体のラインが出にくい修道服を着ているので判然としないが、背丈のほうは靴の厚みを考慮しても、沙月とそれほど変わらない。百六十センチメートルを少し超えるくらいか。
しかし、学園のシスターの衣装を纏うこの女性を、沙月は一度も見たことがなかった。当然抱く、その疑問に答えるように、
「おはようございます。私は今日から、この学校に赴任してきましたマリアと申します。前任のシスターは体調不良で、現在は一週間の療養中です。私はその期間だけの代行です。納得出来ましたか? 日下部沙月さん」
と、沙月の疑念を全て払拭させた。ただ、美しく優しい微笑を浮かべたマリアと名乗るこのシスターは、何故か沙月の名前を知っていた。
沙月が何も言えないでいると、
「〝ミケーレ〟なんて、
と、沙月に対するのとは打って変わって、冷たい視線をミケーレに向けた。
ミカエルをイタリア語で発音すると、ミケーレになる。マリアはそれを、皮肉を込めて言っているのだった。ミケーレはと言えば、こちらも苦虫を噛み潰したような、ウンザリとした表情だ。今にも肩を
「人のことが言えるかい。お前さんだって、〝マリア〟じゃないか。名前をつべこべ言うな」
とやり返した。聖母マリアと同じだと言いたいらしい。やり取りを聞いていると、二人はかなりの顔馴染みのようだ。
「ふん。私はあくまで〝人〟です。あなたとは違うわ」
鼻息を荒くして、シスターは言った。それを聞いて、やっと沙月は口を挿むことが出来た。
「人とは違う?」
「ええ、そう」
マリアは我が意を得たり、とばかりに頷き、
「彼は吸血鬼です」
と、告げたのだった。
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