第29話 星ノ瀬愛理は見ていた


「……………」


 私――星ノ瀬愛理は、食堂近くの廊下の曲がり角前で立ち尽くしていた。


 今、自分がどんな顔をしているのかわからない。

 いろんなことを一度に目撃してしまって、感情が飽和してしまっている。


(あ、ええと……私は……)


 未だにボーッとしている自分の頭を整理すべく、私はここに来てから見聞きしたことを追憶し始める。


 そう、ほんの十分近く前――私は食堂横の購買へと足を運んでいた。


 すると、食堂前で見覚えがない尖った髪型の男子生徒と久我君が何か言い争っている声が聞こえてきて、その内容に自分が含まれていることに瞠目した。


 野次馬の外側で彼らの話に聞き耳を立てると、どうやら私の油断のせいで久我君が難癖を受けているようで、憤りと申し訳なさが胸に溢れた。


(私のせいで久我君が……)


 私も、こういったトラブルのことは警戒していた。

私は曲がりなりにも恋愛ランキング一位であり、その交流関係も多くの人から注目されている。


 どこかで久我君との接点がバレたら、私じゃなくて久我君に問い詰めや悪口が行くのは予想できていた。


(本音を言うと、どうして私の交流関係に他人が干渉するのかって思うけど……)


 だからこそ、彼との接触はバレないようにやっていたつもりだったけど、どうやら目撃されてしまったらしい。

 

 自分の詰めの甘さのせいで彼はひどい因縁をつけられてしまっている――そう悟った私は罪悪感でいっぱいになった。


 だからこそ、すぐにでも騒ぎの中心に飛び出していこうとしたその時――


『わかんねえのか? 星ノ瀬はお前みたいな低ランクに気のあるフリをして回ってるってことだよ。それで舞い上がった馬鹿な非モテどもから大量のいいねポイントを貰ってるって訳だ!』


 そんな悪意ある邪推を聞かされて、踏み出した足は止まってしまっていた。


『はは、すげぇ必死でウケるな! ランキング一位に居座って偉そうに威張りたいからってそこまでやるとかよ!』


 それは完全に根も葉もないことで、事実は何も含まれていない。

 私に対する悪意から生まれた妄想だった。


 そしてそれは、全然珍しくないことだった。

 私は恋愛ランキング一位で、たくさんの人から注目される。

 多くの人から好意を寄せられる一方で、多くの人から悪意を向けられる。


 悪い噂、悪口はいつだって付きまとっていて、なくなることはない。

 そう――どれだけ『私なりの努力』をしようとも。


(それでも……痛いなぁ……)


 こんなことは慣れきったはずなのに、いつだって言葉の刃は私の脆くて柔らかい心に易々と突き刺さって、苦しみの血を流させる。


 けれど、そこで――よく知った声が私の耳へと響いてきた。


『お前……星ノ瀬さんのことを悪く言っただろ?』


 私への悪意を口にした男子生徒に、久我君が信じられないほどの迫力で怒っている様を目の当たりにし――私は思わず息を飲んだ。


 ここ最近は彼とたくさん話す機会があり、その人となりはおおよそ知っていたつもりだったけど……あんなふうに力強い声で怒りを露わにできる面があるだなんて、まるで知らなかった。


 しかも、彼にそうさせている理由は――


(私の、ために……)


 久我君は自分に言われたことじゃなくて、明らかに私への悪口に対して怒ってくれていた。


 絶対に許さないとばかりに目をむき、高圧的な相手に対して一歩も引かず向き合って――ついには周囲の反応を味方につけて問題の男子生徒を退散させてしまった。


 そしてその一部始終を見届けた私は……何故か急速に気恥ずかしくなり久我君から身を隠すように廊下の曲がり角に隠れしまい、今に至る。


 自分の感情が乱れていて、なかなか息が整わない。

 妙に顔が熱くなってしまって、気持ちが平静になってくれない。

 

(ああもう、どうしたの私……! さっきから感情が乱れすぎでしょ!)


 あの尖った髪の男子生徒に悪意ある言葉を聞かされた時は、心を切りつけられたような鋭い痛みが広がっていたのに……それも今は消え失せていた。


 久我君が私のために怒ってくれたを見たら何故か熱い気持ちが胸にこみ上げてきて――胸の痛みが鮮烈な想いに消し去ってしまったから。


「あははっ! 愛理みっけ! なーにコソコソしてんの!」


「え!? こ、小岩井さん!?」


 未だに混乱中だった私に声をかけてきたのは、同じクラスの女子――小岩井杏奈さんだった。

 いわゆるギャル系の女子である彼女は、何故か私を見つけてニンマリとした笑みを浮かべている。


「え、ええと……私に何か用なの?」


「もー、まだ名字呼びー? いつまでアタシに片思いさせるかなー!」


 戸惑う私に、小岩井さんは頬を膨らませる。

 けどそうは言っても、別に私と小岩井さんはあくまでたまに話す程度の仲で、そこまで馴れ馴れしくするのも気が引ける。


(小岩井さんも不思議な人よね……)


 私には特別親しい友達はいない。

 誰とも平等に交流して広く浅い交友関係を保っているし、みんなもそのことに特に不満を見せる様子はない。


 けど、小岩井さんは二年生で同じクラスになると、初対面からいきなり『愛理って呼ぶからよろしくー!』とくるほどに距離の詰め方がバグっていた。


「まー用事っていうか? さっきの久我のキレ方とか見てたらピンと来たから答え合わせしたいなっていうか!」


「……ええと、久我君って、ウチのクラスの久我君?」


「そそ、久我錬士クン」


 何を言いたいのかよくわからないけど、とりあえず私と久我君に交流があることを隠して返事する。


 どうやら小岩井さんも、さっきの久我君たちの騒ぎを見ていたようだけど……。


「久我ってさ、以前はアタシと恋愛授業でご対面したらカチカチのアイスみたいになってたのに、なんか急に普通に喋るようになってたの。で、本人に聞いたら恋愛の特訓したからとか言い出して、メッチャウケてさー」


「へ、へぇー……」


 あくまで他人事としての表情を作るけど、実際は冷や汗をかいていた。

 というより、なんで小岩井さんはそんな話を私に……?


「で、ぶっちゃけさあ、久我に女子の話し方とか教えたのって愛理っしょ?」


「ぶふぅ!?」


 あっさりとその事実を言い当てられて、私は動揺をまったく隠せずに女の子にあるまじき驚き声を出してしまった。


(ど、どど、どうしてバレたの!? 小岩井さんの前で、そんなそぶりを見せたつもりはないのに……!) 

 

「いやー、だってさあ、あのトンガリ髪の男子が久我と愛理が一緒にいたとかなんとか言ってたし、久我は愛理のことを悪く言われてメッチャキレてるっしょ? そんで二人の接点って何だろって考えたら、久我の言ってた『恋愛の特訓』絡みしかないし」


 な、何だか知らないけど妙に推理力が高い……!

 何なの!? ギャル探偵か何かなの!?


「あ、いや、それはそのぉ……」


「あー、いーっていーって! 別に誰にも言いふらかしたりしないし、何だったら協力するし! まー、どんな恋愛特訓やってるかはマジ知りたいけど!」


 可笑しそうに笑う小岩井さんを見るに、もはや誤魔化すのは不可能だと私は悟った。まあ彼女の性格上、秘密を守るという言葉は信用できるけれど――


(私の油断で久我君と一緒にいるところを見られたのを反省したばかりなのに、小岩井さんにこうもあっさりバレるなんて……! うう、もうちょっと上手く誤魔化しなさいよ私!)


「いやー、でもいいことだってば! 愛理がそうやって、今までとは違うことを始めたのがさ!」


「え……?」


 小岩井さんは何故か嬉しそうに口の端をゆるませており、腕を組んでうんうんと満足げに頷いた。


「ほら愛理ってマジ可愛いっしょ? なのに毎日どっか無理してる感じがしてるし、カレシ作らない宣言してるわで、なーんか見ててモヤモヤしてたっしょ!」


 小岩井さんは肩が並ぶほどに近く距離を詰め、私の顔をまじまじとのぞき込んだ。

 まるで、仲の良い友達にそうするように。


「だから、カレシじゃないにしても、愛理が他とは違う関係の相手を作ったことがアタシはマジ嬉しいんだって! やっぱ人間関係にバランスだけとってるセーシュンとかつまんないし!」


 上機嫌で笑いながら、小岩井さんはバシバシと私の肩を叩く。

 

「とにかく、さっき言った通り二人のことは邪魔しないから、安心してっしょ! ほんじゃまー!」


 最初から最後まで言いたいことだけを言い、小岩井さんは去って行った。

 本当に、良くも悪くもパッションで動く人なんだと苦笑する。


 けれど……彼女は本当に私ことをよく見てくれているし、人の心をよくわかっているんだろうなと思う。


(今までと……違うこと……)


 自分ではそこまで意識していなかったけど、そう言われれば確かにそうだった。

 久我君に自宅の火事から助けてもらった夜から、私の日常は大きく変化していっている。


 今まではよくも悪くも私の学校生活は安定していた。

 そうなるように私が願い、私が調整してきたから。


 けれど、今は少しずつ自分とその環境が変わっているのを感じている。

 さっきの食堂での騒ぎのように、私の毎日には微かにヒビが入ってくるのかもしれないけど――


(それでも……私はいいなって思ってる)


 私は、特に何も起こらない生活を望んでいる。

 過度に注目されず、過度な好意も過度な悪意も持たれない――そんなごく当たり前の毎日を。

 

 であるのなら、最近身の回りの環境が変わり始めたことに忌避感を抱くべきなのだろうけど――


 私は、私を取り巻く変化を、どうしても嫌えそうになかった。

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