第21話 二人で一つのキッチンに


「じゃ、じゃあ始めるわね久我君。本当に私ったら経験がなくて……ちゃんとリードしてくれたら嬉しいかな」


「あ、ああもちろんだ。今日はそれが目的なんだからな」


 土曜日の昼。

 俺は緊張に震える声で、隣に佇む星ノ瀬さんに言葉を返した。


 今この状況は、俺に人生でも有数に特異だった。

 星ノ瀬さんと休日に会っているだけでもとてつもない大ごとなのに――


 その場所が、一人暮らしの俺の家なのだから。


(しかも……)


 その日の星ノ瀬さんの姿は、とても新鮮だった。

 

 カジュアルな私服姿の上にストライプのエプロンを纏い、長い髪は邪魔にならにように結い上げている。


 清楚な美少女の家庭的な姿はやはり目を瞠るものがあり、今のこの状況がますます夢なのではないかと思えてしまう。


(落ち着け……落ち着け俺……! これは単なる家事指導の一環で、俺は今から星ノ瀬さんに料理を教えるだけだ!)


 先日の恋愛授業で会話実習があったあとも、星ノ瀬さんは何度か俺に恋愛レッスンを実施してくれた。


 その内容はお互いの顔を見つめ合うという基礎トレーニングから始まり、さらなる会話のコツなど色々あったが、相変わらずためになることばかりだった。


 そのため、俺もさらなる家事指導をすべく料理の練習会を開くことを星ノ瀬さんに提案したのだが――


(俺の部屋での開催になるのはちょっと予定外だったな。まあ、調理器具や調味料やらが星ノ瀬さんの家より揃ってるからって理由だけど……)


 つい先程に星ノ瀬さんを家へ迎え入れた時は、心臓が口から飛び出そうなほどに緊張していた。


 彼女を家に招くのはこれで二度目だが、前回は行き場のなくなった星ノ瀬さんに一時の場所を提供するという人道的な理由があった。


 けど今日は『契約』のためとはいえ、俺から星ノ瀬さんを自宅に招いたことになる。女子緊張症の俺じゃなくても心臓が破裂するシチュエーションだろう。


(あれ、よく考えたら家事指導ってどっちかの家でやるしかなくないか? もしかして、俺ってこれから指導のたびに星ノ瀬さんの家に行ったりこうして家に招いたりしないといけないのか……!?)


 俺がその事実に戦慄している間に、星ノ瀬さんは準備を終えて台所のまな板に向き合っていた。


 料理指導とは言うがやることは至ってシンプルで、昼食用のレシピと食材を用意してそれを星ノ瀬さんの手で完成させるというプランだ。

 ダメなところがあったらそのたびに是正していく――そういう方針である。


「そ、それじゃ……やってみるわ!」


「ああ、始め――ん?」


 俺は、思わず目を丸くした。

 

 星ノ瀬さんは気合いの入った面持ちで包丁を持ち、人参が乗ったまな板に注視している。


 それは別に問題ないのだが――


 なぜ彼女は包丁を両手で握っているのか?


 そして何故、人参を親の敵のように見つめたまま、刀よろしく包丁を大上段に振り上げているのか?


「せーのっ……!」


「ストォォォォォォップ!!」


 叫びつつ、俺は咄嗟に星ノ瀬さん腕を背後から掴んで止めた。


「ひゃ、ひゃあっ!? ちょ、どうしたの久我君!?」


「それはこっちの台詞だよ! 包丁を振り上げたら危ないだろ!」


「え? でもこんなに太い人参だと、このくらい勢いをつけないと切れなくない?」


「そんな薪割りみたいなフォームじゃなくても十分切れ――あっ」


 不思議そうに呟く彼女にツッコんでいると、ふと自分が星ノ瀬さんの両腕を握っりっぱなしであることに気付く。


 柔らかな腕の感触が伝わると同時に、彼女に限りなく密着していることにより、甘い女の子の香りも強く感じしまい――


 元から免疫ゼロの俺の脳は、一瞬で飽和してしまった。


「え、ちょ、久我君!? なんか気絶しかけてない!? 女の子に触っただけでオーバーヒートってどれだけピュアなの!?」


 遠くなっていく意識を懸命に維持する俺に、星ノ瀬さんの焦った声がどこか遠くから聞こえるような気がした。


 まあ、そんな出だしから――料理レッスンの日は始まったのだった。


■■■


「手ぇ! 手が危ないって! 基本は猫の手! 包丁で切る箇所に絶対指を置かないでくれ!」


「え、ええ、わかったわ! って、ひいぃぃ!? つ、爪の先っちょ切っちゃったぁぁ!?」


 料理指導のメニューはある程度簡単なものを選んだつもりなのだが、俺はその見積もりが甘かったこを痛烈に思い知っていた。


「さ、さて次はお肉に片栗粉を……って、ぶふぉっ!? こ、粉がすっごく宙を舞って……! げほっげほっぼふぇ!」


 本人の名誉のためにあまり直接的な言葉は使いたくないが、星ノ瀬さんはなんかもう不器用とかそういうレベルではなかった。


 おかげで今は星ノ瀬さんを自宅に招いた気恥ずかしさと緊張など頭から吹っ飛んでおり、今はただこの家事指導を無事に終わらせるべく神経を集中させている。


「う、うう、ごめんね久我君……。私ってばこんなんだから、いつもレトルトばっかりで……」


「いいや、全然大丈夫だ。むしろやり応えがあって、役に立ててるって実感があるしな!」


「それって暗に私が想像以上にダメダメだって言ってない!?」


 頭の一部に片栗粉をかぶった星ノ瀬さんが涙目で叫ぶが、俺は曖昧な笑みでスルーするしかなかった。

 世の中、いくら事実であろうと声高に言ってはいけないこともあるのだ。


 まあ、そんなこんなでなんとか料理は進んでいった。


 問題点を見つけて是正する、なんてプランは問題箇所が多すぎてほぼ崩壊していたが、それでも多大な時間と犠牲を払ってゴールへと近づいていったのである。


「お、おぉ、おおおおおお……!」


 テーブルに並んで湯気を立てる料理を見て、俺は思わず感極まった声を出してしまった。


 そこに並ぶのは、肉野菜炒め、味噌汁、白米、ナスのおひたしという普通の定食なのだが……そこに至るまでの軌跡を思うと俺は感動すら覚えてしまった。


「で、出来た……! 出来たわ久我君! な、なんだか涙出てきた……!」


「ああ、よく頑張ったな星ノ瀬さん……! 本当に偉いぞ!」


 まるでフルマラソンを完走したようなテンションで、俺たちはお互いの奮闘をたたえ合う。


 何せ、ここまでが遠い道のりだったのだ。


 星ノ瀬さんが片栗粉をぶちまけたり(調理を中断して台所を掃除した)、全部の野菜を同時にフライパンに入れたり(火の通りにくい人参だけ取り出して電子レンジにかけた)、『少々』の塩を割とドバっと入れてしまったり(急遽具材を足して塩分を薄めた)……まあその他色々だ。


「す、凄くまともな見た目になったわ……! なんかもう夢みたい!」


 自分が作った料理をキラキラした瞳で見つめる星ノ瀬さんに苦笑しつつ、俺は出来上がった料理をテーブルの上に配膳する。


 そうして、俺たちは遅めのランチタイムになったのだが……。


「う、ウソ……美味しい……。これ本当に私が作ったの……?」


 肉野菜炒め(顆粒コンソメ味)を一口食べた星ノ瀬さんは、感激を露わにした。

 かなり衝撃を受けている様子で、若干箸を持つ手が震えている。


「う、うう……! 初めて……初めてまともに料理が成功したわ……! 焦げた卵焼きとか、ベチャベチャのパスタとか、海水みたいにしょっぱい味噌汁とかばかり作ってた私が……!」


「そ、そうか……」


 どうやら今まで結構な絶望を積み上げていたようで、星ノ瀬さんは感極まって瞳に涙すら溜めていた。


「いやもう本当にありがとう! まあ、今日は久我君がつきっきりだったから出来たことだけど、私でもちゃんとレシピ通りに作ればまともなゴールに行き着くんだって証明できたわ!」


「そっか、自信が付いたのなら良かった」


 最初の一歩を踏み出せた喜びにひたる星ノ瀬さんを見ると、こちらとしても嬉しくなってしまう。

 星ノ瀬さんの力になれたことは、俺にとっても快いことだから。


「私ね、実はちょっと自分に絶望していたの。せっかく意気込んで一人暮らしを始めたのに、まさか、分がここまで家事の才能がないとは想像してなくて」


 まあ確かに、星ノ瀬さんに家事の才能があるとはお世辞にも言いがたい。

 笑い話のようだが、実際一人暮らしだと困るだろう。


「だから、久我君の協力には本当に感謝してるわ。これで、これからの生活にかなり希望が持てたから。こんな自分でもちゃんとできるかもしれないと思えるのって、とっても嬉しいことなんだなって」


 言って、星ノ瀬さんは深々と頭を下げた。

 こんな俺に、本気で謝意を示してくれていた。


 だけどそれは、俺こそが星ノ瀬さんに言いたいことだった。


「それは……俺も同じだよ」


 気付けば、それに応えるように俺の口は勝手に開いていた。


「自分には絶望的に向いてないって思ってたことが、少しずつできるようになるのが嬉しい。こんな自分でもちゃんとできるかもしれない……そう思えるのが、俺も凄く嬉しいんだ」


「そっか。なら……私たちって本当にいい協力関係を結べたわね」


 俺の心からの言葉を聞いて、星ノ瀬さんは嬉しそうに微笑んだ。


「お互いが、お互いの欠けているところを補って、できなかったことをできるようにしていける……うん、私たちって相性がとってもいいんじゃない?」


(ぶふっ……!)


 それは、ただ協力者としての好意と感謝の念のみがある言葉で、他意がないのはわかっていた。


 だがそれでも、星ノ瀬さんのような美少女に『相性がいい』などと言われて男心に波が立たないはずもなく――俺は頬は自然と赤みがさしてしまっていた。

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