第4話 お隣さん炎上
「ただいまっと……」
俺はスーパーのビニール袋を片手に、自宅マンションの玄関ドアを閉める。
家の中にはただ薄闇が広がっているだけで、誰からの返事もない。
まあ、俺の一人暮らしなのだから当然なのだが。
(慣れたよな……。家族と離れての一人暮らしにも)
高校生である俺が一人暮らしをしているのは、別に重い家庭の事情などがある訳じゃない。
俺の両親は揃ってとある大企業に勤めているのだが、特に母さんは年齢を考えれば異例の大出世を果たしたらしく、遠方の支社長に抜擢されたのだ。
そのため母さんと親父、そして妹はそっちに引っ越すことになったのだが、俺は高校入学が決まった直後だったので、悩んだ末にこの地元に残ることにしたという訳だ。
(本当に立派なマンションだよな。もうちょっと安いアパートでも十分だったと思うけど……まあ、素直に親に感謝だな)
買ってきた食材をごそごそと冷蔵庫にしまいながら、俺は自分がいかに恵まれているかを噛みしめる。
家族と仲がいいのは本当にいいことだと、家族と離れたからこそ思う。
ただでさえ学校では色々あるのに、家のことでまで悩んでいられない。
「今日の『恋愛授業』もまたダメだったなあ……」
午後の授業を思い出して、俺はため息を吐く。
『恋愛』の授業とは、男女交際推進法と同時に学校授業に取り入れられた新たな教科だ。男女交際の促進を目的とした教科で、恋愛のマナー、恋愛のスタンダードな定石、結婚についての諸々などの知識を学ぶとともに、『実習』も行う。
『実習』とはその名の通り異性との接触練習であり、男女でペアを組んで会話したり、共同で何かの作業をする。
そういった触れ合いで、異性との接し方などを養うのが目的だ。
男女交流の役割も担っており、この実習がきっかけで交際に発展することも多い。
それで、今日はペアを組んだ女子との会話実習だったのだが……。
『アンタさー、アタシのこと馬鹿にしてんの? せめて目を合わせて喋れないワケ?』
今日の俺のペアだったクラスメイトのギャル女子――
小岩井さんの物言いはトゲトゲしかったが、それも当然だ。
なにせ、小岩井さんを目の前にした俺は例の女子緊張症を発症してしまい、ロクに言葉も交わせずに実習時間を過ごしてしまったのだから。
「やっぱり俺に恋愛なんて無理だ……女子と話もできない奴なんて最初のステージにすら立てないだろ……」
制服から部屋着に着替えながら、俺はため息をさらに深くした。
「………………俺、一生このままなのか? 今はまだいいけど、これから大学生になっても社会人になっても、まるで恋愛できずにずっと一人……?」
頭をよぎった恐ろしい想像に身震いする。
まったく笑えないその未来を思い浮かべただけで、重たい鉛を呑んだような気分になってしまう。
「あーやめやめ! とりあえずメシ作るぞ! 美味いメシは大体の悩みを吹き飛ばしてくれる……!」
俺はエプロンを羽織り、キッチンで料理に取りかかった。
一口大に切った鶏ももに塩こしょうをまぶし、ニンニクとショウガはのすりおろし入り調味料に漬ける。
待ち時間の間に味噌汁の出汁を取り、サラダを作る。
キャベツ、タマネギ、トマトのシンプルなものだが、今日のメインを考えれば最高の副菜だと言えるだろう。
「やっぱ、落ち込んでる時は唐揚げだよな」
包丁を動かす手を休めずに、俺は笑みとともに呟く。
そう、唐揚げは万能かつ神だ。
材料費はさほど高くないし、難易度もさほどじゃない(まあ油の処理は面倒だが)。であるのに、その味は究極の一つと言っていい。
唐揚げと聞いて目を輝かせない男はいない。
唐揚げを前にして腹が鳴らない男もいない。
どんなに気分が落ち込んでいても、揚げたての唐揚げを一口食えば少なからず元気が出る。俺の好物ランキングの中でもかなりの上位に位置している。
(ふふふ……鶏ももを大量に買ってきたからな。今夜は唐揚げパーティーキメよう。思う存分食って学校でのアレコレを忘れ――)
俺が笑みを深めたその瞬間――
突如、耳をつんざく音が鳴り響いた。
(っ!? な、なんだ……!? 非常ベル!?)
異常を知らせるその音はけたたましく鳴り響いており、俺は目を白黒させながら包丁を置く。
もしやウチの家で何か起こっているのか思い、部屋を軽く見回るが……別に異常なんてない。
(けど、この非常ベルかなり近いぞ……もしかしてお隣か?)
流石に無視できる状況でもなく、鼓膜を破らんばかりに非常ベルが鳴り響く中で、俺はエプロンを脱いで玄関の外へ出た。
だが、外に出てもいつもと変わらぬマンションの廊下が広がっているだけで、特に視覚的な変化はない。
けど、非常ベルの音はやはりかなり近いような――
「きゃああああああああ!?」
「!?」
突如としてお隣さんのドアが勢いよく開け放たれて、そこから凄まじい量の煙がもうもうと噴き出した。
同時に、小柄な住人が悲鳴と同時にマンションの廊下に転がり出てきた。
煙が一気に周囲を霞ませたため、姿はよく見えないが――
「あ、あの! 大丈夫ですか!? 一体どうしたんです!?」
「あ、ああ……ひ、火が、火が……!」
白いモヤでよく見えないその人影は、ひどく混乱した様子で自宅の中を指さす。
主婦の人かと思ったけど、何だか声が若いような……?
「ま、まだ燃えてるの! ど、どうしよう……何とかしないと!」
「……!」
俺はドアが開け放たれたお隣さんの自宅内に視線を向ける。
まだ煙は天井付近にあり、熱も感じないし火元らしきものもまったく見えない。
であれば、今ならまだ――
「……待っててください。いけそうなら何とかします」
後に振り返るのなら、ここは素直に消防署に連絡すべきだったのだろう。
けど、この時の俺は『とにかく何とかしないと!』という想いで頭がいっぱいであり、それが火災現場への突入という行動に走らせてしまったのだ。
(よし、行くぞ……!)
袖で口元を覆い、身を低くしてお隣さんの家の中へ。
やはり火の熱はまるで感じないが、煙はどんどん天井を覆っていく。
そうして、未だ鳴り止まぬ非常ベルに耳を貫かれながら進み――煙の発生源とおぼしきキッチンにはすぐに辿り着けた。
「え……?」
この状況が火災であることは疑っていなかったが、俺はその原因をフライパン上の油への引火や、コンセントの電気スパークなどを予想していた。
だが実際は……。
(な、なんだ……? 古い電子レンジだけど、中で火の玉が燃えてる……?)
ブゥーンと音を立てて稼働中の電子レンジの中には、何故か崩れたボール状(?)の何かがメラメラと燃えさかっており、扉が少し開いている。
この部屋の天井を覆う煙は、そこから勢いよく噴出しているもののようだった。
(ど、どういうことなんだこれ? いや、それよりさっさと消火しないと……!)
電子レンジには熱くて触れられる状態じゃないので、まずは電源コードをコンセントから引っこ抜く。
だが、それで電子レンジ内の火の玉が消えてくれる訳じゃないので、俺は内心の焦りを抑えながらキッチンにあった鍋に流しで水を溜め――
「おりゃあ!」
それを一気に火の玉へとぶっかける。
それだけで炎はほぼ消えてくれたが、念のために後二回ほど同じ手順を踏む。
「はぁ……はぁ……なんとか消えたか……」
電子レンジの扉さえ開いてなければ電源を切って自然消火を待っただろうけど、扉が開いて酸素が供給されている状態だったので、水をぶっかけざるを得なかった。
キッチンをビショビショにして申し訳ないが……流石に許してほしい。
「けどこれ……どうして火が出たんだ?」
俺は家庭の事情で幼い頃から家事をしており、火の失敗も多少はやった。
今回何とか冷静に動けたのもそういうやらかしの教訓だったりするのだが、それでもこのボヤの出火原因はよくわからない。
「あ、あの……」
俺が頭をひねっていると、キッチンの入り口付近からおずおずとした声が響いた。
まず間違いなく、さっきマンションの廊下に転がり出てきたこの部屋の住人だろう。水音を聞いて戻ってきたものの、怖くてキッチンに入ってこれないようだった。
「も、もしかして電子レンジの火を消してくれたんですか……?」
しかしこの声、やっぱりどこかで……?
「あ、はい……。勝手に上がり込んで失礼しましたけど、とりあえず火は消えました。幸い、何かに燃え移ったりもしていないみたいです」
「ほ、ホントですか!? よ、良かったあああああぁぁぁ……!」
恐怖の元凶が消えたと聞き、住民の人は声を弾ませてキッチンに入ってくる。
そうして、俺はここでようやくお隣さんの全身を視界に収めた。
(ん……?)
その人は、想像したより大分若い――いや、俺と同年代くらいだった。
というより、とても見覚えがある顔だった。
ふわりと揺れる、長く艶やかな髪。
無垢なまでに白く、粉雪を思わせるような肌。
星の煌めきのように輝く瞳。
街角を歩けば誰もが振り返るようなその美貌は、見間違えようがない。
「え、あ……?」
「本当にご迷惑をかけてしまってすみません……! 私、は……?」
火の元が消えて部屋に漂っていた白煙が薄まり、お互いの姿は隠されることなく露わになる。
「……星ノ瀬……さん……?」
「は、え……? 同じクラスの……久我、君……?」
煙たさが色濃く残るキッチンの中で、俺たちは呆然とお互いの名前を口にした。
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