神託により契約の契りを命ず

雨 杜和(あめ とわ)

第一節 前編

第1章

第1話 斎宮にあらわれた勅使




 ジジジジジ……ジジッ–––––



 かすかにこすれ音を立て、かたまりとなった蝋燭ろうそくの芯が倒れる。炎がすうぅーとかき消え、昼というに濡れたような闇が支配した。


東風こちが強うござりますな。蔀戸しとみどを下げてもよろしゅうございますか……」


 蔀戸しとみどとは板造りの雨戸のようなもので、つっかえ棒を取って落とせば窓をふさぎ雨風をしのげる戸板である。


 御簾内にいた夜鳴媛よなひめは、朝からもの憂げな気分が消せず、返事をしようか迷った。

 廻り廊下の先から騒々しい声が聞こえてきたのは、そんな時だった。


神巫かんなぎさま、神巫かんなぎさま。朝廷より勅使が参っております」


 神巫かんなぎと呼ばれた夜鳴媛よなひめは、閉じていたまぶたを薄っすらとあげた。


 宝玉のような瞳が光を帯びる。

 銀色にちかい薄青髪のあいだから、透明感のある顔立ちが浮き上がった。


 心のすべてを見透かされそうな、どこか凛とした知性と哀愁をもつ表情には、気高さと無垢さを併せもつ少女のような儚さと、『神域』の守護者たる尊厳が同時に宿っている。


 彼女がまとうのは、典雅な神巫かんなぎの装束。

 白小袖は吸い込まれそうなほど純白で、動くたびに金鱗魚のような淡い光沢を帯びる。袴の裾には黄金の縁取りが施され、静謐な配色の中に尊厳と重みをもたらしていた。


 それは、ただ美しいだけではない。

 神秘なる存在感。

 透き通るほど美しい容姿のもつ品格。


 そこに宿る清廉と気高さは、見る者に自然と息を止めさせ、敬意とともに守るべきものという庇護欲を自然に抱かせるのだが、他人を寄せ付けない近寄り難さがそれをはばんでいる。


 彼女は無関心を装いながら周囲を睥睨へいげいする。


 その視線を受けて、長く耐えうるものはいない。美も過ぎたれば暴力に近く、それゆえに孤高を強いられた……。


 神巫として厳しい修行をしてきた夜鳴媛にも、かつては普通の少女だったことがある。

 人を超越した神聖さを身につけるため、物心つく頃から血の滲むような努力をしてきたのだが、それを知るものは少ない。


「神巫さま、珍しいことにございますが、朝廷より勅使が参りました」


 珍しいというより、大事がおきたのであろうと、夜鳴媛よなひめは思った。


 神代の代から連綿とつづく神巫かんなぎの末裔として、王都の北辺にある墳墓の麓で神を祀り、静かに祈りの日々を送ってきた。


 神秘のもやが立ちこめる霊域を人は恐れる。まして王都より勅使が訪れることは珍しい。




 本殿にある両開き戸が開き、いきおい強い風が室内を通り抜ける。

 風とともに三人の官女が入室し跪拝きはいした。

 

「勅使の平緒ひらおにございます。莲氏れんうじさまより、大王おおきみの御言葉を申し上げます」


 大和政権において、莲氏れんうじは大物豪族であり、朝廷では神祇官職をつかさどっている。


 本来なら夜鳴媛よなひめは、御言葉を前に跪拝すべきなのだが、彼女は几帳の影で黙っていた。

 言葉をかけた官女はうずくまったまま、うわ目使いに様子をうかがう。夜鳴媛よなひめを畏怖し怯え、かすかに震えてもいた。


「申しなさい」


 几帳の影に控える侍女が、救いの手を差しのべるように声をかけた。


「つ、謹んで申し上げます。大王さまより、契約のちぎりのため、都にご来訪願いたいとのことにございます」

「……」


 扇で床をたたくようなコトンという音が几帳の奥でした。

 しかし、返答はない。

 無言の時が過ぎる。耐えかねた官女が声をついだ。


「星読みによりますと、数日前から星の配置に乱れが生じているとのこと、凶兆にござります」


 夜鳴媛よなひめは驚いた。

 そのような予兆を、まったく気配も感じなかった。しかし、星読みたちが読み違えるはずはない。では、自分の力が弱まったのか。


「契約の契りは火急を要しますゆえ、ご準備のうえ、すぐにでもご出立いただけますようにお願い申しあげます」


 勅使の平緒ひらおは、ふたたび探るように几帳の奥をうかがった。

 彼女の背後に控えた若い官女ふたりも、同じように額を床につけ、同じようにかしこまり、同じように次の言葉を待った。


 まるで、よくできた三体の操り人形のようだ。

 ……そう夜鳴媛よなひめが考えているとは思いもしない。


 いや、少なくとも平緒は朝廷に勤めて長い、権謀術数の中心で生き延びた古参だ。案外と心を読んでいるかもしれない。


「何があったのだ」

「西南にある村が、一夜にして死に絶えましてございます」

「承知」


 声は低く、ささやき声に近いが不思議とよく通る。まるで心の臓に直に語られたかのように、官女たちはビクリと身体を震わせた。

 彼女たちが恐怖を抱くのは、神巫かんなぎが高位の身分というだけではない。多分に本能的なものであって、人ならざる者の異質さを感じているからだ。


「畏れ多いことにございます。つきましては、御所車ごしょぐるまをご用意して参りました」

「明日」

「かしこまりましてございます」


 官女たち三人は同時にほっと息つくと、両手を床につけ深く一礼、身体を前向きに頭を下げたまま静かに後ずさった。


 後には静寂だけが残った。


 今日は朝から雲がどんよりと低くたちこめ、昼なお薄暗い。

 午后から、ことさら風が強くなった。都では、このごろの気候に異変を感じた人びとが、これはあやかしたたりだと怯え噂していると聞く。


蔀戸しとみどをお下げしますか?」


 侍女として控えているナカテが媛の代わりにうなづく。と、時をおかずバタンバタンと音を立てながら蔀戸しとみどが閉じていった。


 同時に灯籠を掲げた侍女たちが入室する。

 すり足で所定の場所に灯りを置いていく姿は典雅でありよどみなく、慣れきった所作は、何百年も同じ動作を繰り返してきたように狂いがない。


 彼女たちは仕事が終わると逃げるように、すり足で室内から去っていく。

 入り口の扉が静かに閉じた。


 この斎院には多くのものが仕えている。

 警護のものも含め二十人はくだらないだろうか。彼らは夜鳴媛の世話をし警護するという名目のもとに、未来永劫、彼女をこの場に閉じ込める看守でもあった。


 だからこそ、夜鳴媛が心を許す相手は侍女のナカテ以外にいない。

 官女たちが下がり、腹心のナカテだけになると、夜鳴媛よなひめは、大きくため息をついて几帳の奥で足を伸ばした。


「まったく、無理。ほんと、無理」

神巫かんなぎさま」

「やめてよ、ナカテ。その呼び方はイラつく」


 ナカテと呼ばれた古参の侍女は、これまで几帳の隅に隠していた姿をあらわした。


「それで、朝廷ではどうしているの? 調べてくれた?」

「残念なことにございます」

「あんたが丁寧語を使うときって、ろくな報告がないときね」

「ご明察にございます」

「では、契約を……」と言って、彼女は次の言葉をのんだ。「するしかないのか」


「媛さまは御年二十一にございます。遅過ぎたとも言えますけど」

「わたしの婚姻に遅いも早いもない。神と朝廷との単なる契約なのだ。村人に災難があったことで早まったか。どうやら朝廷は大騒ぎのようだな。民をなだめるための神事でしかないが。で、相手は?」

莲氏天祥れんうじてんしょうさまにございます」


 莲氏天祥れんうじてんしょう。その名には聞き覚えがあった。


 莲氏は大王の血を引く名家であり、父は神祇官を担う最高権力者。

 その息子である天祥は、刑部省(警察の役割をする部署)のきょう(最高責任者)であり、主に刑罰などを担う役目をおっているという。


 非常に有能だが冷酷無慈悲な人物としても有名である。

 都から遠く、斎宮に住む彼女からは遠い存在だが、それでも風の噂に聞くほどであった。


 曰く、自分の出世のためには容赦なく政敵を闇に葬る。

 曰く、斬首、処罰するにとまどいもない。

 曰く、感情が薄く、笑ったことがない。


「か弱いわたしの夫は、冷酷無慈悲な鬼のような男か」

「いえ、媛さま、そこはちょっと違うかと。かよわいという形容詞には語弊が。むしろ、相手さまにご同情申し上げます」

「ナカテ、いつからそっち側についた」

「なかなかに美形と聞いておりますから」


 夜鳴媛は声をだして笑った。


「そこか」


 夜鳴媛は先代の神巫によって育てられた。


 実母の顔も知らず、この人里外れた裏寂しい斎宮で育ち、孤独に生きることを強いられてきた。


「わたしと契りたいなどと、愚かものだな」

「嫌なのですね」

「当然よ。知りもしない男となんて、全力で逃げきってやるわ。そんな迷信で民の災難が防げると思うほど、朝廷も愚かもの揃いではなかろう」

「何が恐ろしいって」

「何よ」

「媛さまなら、きっとやり切ることでしょうから」

「よくわかっている」


 過去の素直で無知な自分なら、きっと悲嘆にくれたことだろう。が、今は違う。

 自分が異質なことを認めている。

 人は自分が何者かを理解したとき、強くなれるものだ。

 ならば、異質なりに運命に抵抗するしかない。政争の道具になどならない、まして朝廷の駒になど決してならないと心に決めていた。

 




(つづく)

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