そうだ、今朝紅騎が合同体育だと言っていた。確かに周囲を見渡せば面識のない生徒が多い。スポーツ科と合同だから、その体育を受け持つ斑鳩先生がいるのか。


“斑鳩”——三つ編みだったりポニーテールだったり下ろしていたりの寮長さんの黒髪長髪とは違う、薄い色素に短めの髪をした先生は見学の理由を問う列に並び、順番が回ってきたボクをちら、というよりかはギロと睨んだ。


「西園寺」


「お願いします」


おずおずと差し出す牧先生に貰った紙。それを強めに受け取った後視線を滑らせ、「腹部の怪我? 化膿だぁ?」と眉間に深い皺を刻む。



前回の水泳の授業時、誰か先生の代わりか何かで居た斑鳩先生は、ボクの事を良くは思っていない。何故か前回こうして牧先生からの見学理由が記載された紙を手渡した後、こちらを見る目が睨みに変わった。

何かのきっかけで、性別を疑うようなことがあったのではないかと肝が冷える。


「見せてみろ」


「えっ」


驚きに見上げるも容赦ない手が伸びてきて、平坦とはいえ身体のラインが出ないようゆとりのあるサイズを選んだ体育着の裾が鷲掴みにされる。

直下はタンクトップだ、けど、先生の力じゃタンクトップごと捲られても何の抵抗もできない。


「せっ」


『先生』か牧先生からご教示いただいた『セクハラです』か。そのどちらを放とうとしたのか自分でも分からないくらい慌てて、

近くの生徒はこちらを見ていて、

もうだめだ、思い切り捲られて腹が露わになって、変に思う生徒も出てくるだろうと堅く目を瞑った。



「せんせー。


純なら、仮病じゃないっすよ」



「こ……うき」


自然と名前が口端から溢れる。


「ハァ?」


やはり似ている。寮長さんの部屋に押しかけた時がフラッシュバックする表情で今度は紅騎が睨まれたことに焦った。背後では、当然水着一枚で近付いてきた紅騎に同じく見学の女の子たちが騒ついた。



「俺同室で。朝から痛いって言ってました」


部屋で半裸になった湊同様勿論直視はできないが、そもそも紅騎は部屋でもあまり軽率に服を脱いだりしない。何なら別室の湊の方が突然半裸で出現したりするくらいだ。


「休めばって言ったけど、出るって自分で」



「ほう」


ボクが同じ言葉で騒ぎ立てたところでこうはならなかっただろう。紅騎の気の利かせた証言は絶大なるものだった。


「あと 一組全員揃いました」


紅騎はこちらを一切見ずに淡々と口にして、斑鳩先生は一度ボクを見下ろした後紅騎のクラスへと足を向けた。その背中を目で追う中、振り返った紅騎がこちらに片目を瞑って魅せたことで再度女子生徒が沸き立ち、先生も不審そうに振り返ったけど。



紅騎〜〜! ありがとう〜〜!


半泣きで感謝したのち見学仲間の皆とベンチに腰を下ろしながら、朝は話途中になったけど紅騎も陸上じゃなくて水泳だったんだなぁなどと呑気にキラキラ輝く水面を眺めていた。



「純くん腕真っ白!」


「え」


授業が始まり広いプールの中央で仕切られた男子女子のあちこちから楽しそうな声と跳ねる水音、スタートを知らせるホイッスルの音が聞こえる中隣から声を掛けられ顔を向けると、いつの間にか隣に座っていた桜さんがこちらを覗き込んでいた。


「ほら見て〜私より色白くない?」


腕を並べられてドキ、と小さく警戒してしまう。「うわぁ女の子みたい」と明るく話す桜さんとは体育祭を経てまた少し仲良くなれた気がしていた。呼び方も、西園寺くんから純くんに変わっていて何だか擽ったい。


「っあ、女の子みたいとか嫌だった? ごめんね」


「ううん。桜さんは通学があるから…日焼け、しちゃうよね」


桜さんは主に対橘くんの時は強めだけど同性のボクから見てもとても可愛い女の子だ。彼女を表すような明るい髪色にポニーテールがよく似合っている。


「純くん〜〜優しすぎ。

純くんはどうしたの? 怪我とか?」


先の大丈夫? が聞こえてくるような問いかけに小さくうん、と頷くと、屋根の影からはみ出ていた桜さんの足元にプールの水が飛んできた。


「ズル休みしてんじゃねーよブス!」


「ア?」


桜さんの急変するこの反応。相手を見なくても判る。

額に大きすぎるくらい大きく2年6組橘 夏向かなたと油性ペンで書かれた(2年の2は元々の1を二重線で消した上に乱雑に書かれている)紺色の水泳帽を被って透明のゴーグルをしている橘くんだ。


「どーせ俺との勝負に怖気付いて嘘吐いて見学してんだろ?」


自分の番は泳ぎ終えたのか、わざわざ見学者の所まで泳いで来て若干他の見学女子をも敵に回しているが気づいてなさそうだ。

どうしても桜さんに直接物申したかったらしい。


「んなわけねぇだろうがァ……テメェは小学生か? その頭でどういうズルしたんだか知んねーけど人を騙して特進科に入り込んだ嘘吐きはテメェだろうがこっちは寧ろまた一つおまえを負かすこの舞台を楽しみにしてたわ」


「じゃー何で見学なんかしてんだよ」


「っ」


言葉に詰まった彼女を見て、もしかしたら桜さんもと勘付くものがあったがそれが橘くんに伝わるわけもなく。小さな口パクに「は?」と首を傾げるだけ。プールの奥、反対側からはサボっていると捉えられた橘くんの名が叫ばれ始めた。


「何て?」


聞こえているのかいないのか、橘くんは隣にいたボクの方を見上げた。視界の端には困ったように俯く桜さん。



「……桜さん、お腹痛いって。さっきも薬飲んでたから本当だよ」


本当の嘘吐きは、桜さんでも橘くんでもなくボクだ。友だちに嘘を吐くなんて最低だと解っている反面、回数を重ねる度にこの胸の痛みが薄まっていくのではないか、慣れていくのではないかと怖い気持ちに溺れそうになる。


「そうなん?」


意外そうな橘くんは一度そう聞き返した後ふーんとだけ呟いて、その後は特に暴言を続けることもなく、呼ばれた方へと泳いで戻って行った。



「純くん……マジ神」


顔を上げてわなわな震え出した桜さん。後ろの列から「今のはイケメン過ぎたわ」と声を掛けられ、話したことのない女の子と目が合う。


「あいつ……腹パン十発くらい入れてこの薬飲むレベルの痛みを思い知らせてやりたかったわ……後で襲撃しよかな」


震えが拳へと伝染している。周りの、事の一部始終を見守っていた女の子たちがどっと笑って、端に肩を寄せ合う女子より少ない男子が何事かと振り向いた。


「純くん何でそんな理解あるの。お姉ちゃんか妹いるとか? それともまさか……他校に彼女とか? 中学の時から付き合ってる彼女がいるとか? あっ転校前の高校の子!? 私、純くんと走ったパン食い競争の写真、純くんが一生懸命ジャンプして届いてないシーンの買ったのにそんなん聞いてないしショックすぎるけど!?」


「え?」


「待って。私だって体育祭以降密かに推してるから。その写真も注文したし、あと綱引きの時の、桜と橘のバカ力に引きずられて宙ぶらりんになった純くんの写真も注文したから」


「それめっちゃ可愛かったよね、優勝だわ。うちは玉入れの時の半目の純くんと買ったけど」


人見知りと驚異的な速さで流れ込む情報への羞恥とで、始めの『お姉ちゃんか妹いるとか?』には正直にそうだと答えられると意気込んだ気持ちがどっか飛んでった。


「でも全員あれは買ったっしょ。騎士様のおんぶ純」



騎士様のおんぶ純????



何だろうそのちょっと美味しそうな、おしゃぶり昆布的な要素のある言葉は。

気になって周囲を見渡すも彼女らは皆揃って目を瞑り、静かにうんうんと頷いている。素晴らしい団結力だ。


「それについてはこれ以上、ここで語るべきではないでござるよ」


うんうん。


「拙者のベースは斑鳩家の次男であられる星悟殿でござるが、先の騎士ムーヴを焼き付けた網膜を橘などという雑魚に使う気もさらさらないでござる」


うんうん。桜さんまで。


一年生が口にするよりは揶揄も含んだ『騎士様』だった。


「女子はさー」


話は、後列に座った女子によって題を変えて紡がれる。


「スポーツ科の数少ない女子が混ざってもカッコイイ〜! って目で見られるけど、男子はマジ不憫だよね、私男子だったとしてもスポーツ科と一緒に泳がされたくなくて生理ですっつって見学するわ」


「そんな中、何で橘は桜に勝負挑んでくるんだろうね。

恋かな?」


「いや同性かゴリラとでも思ってんでしょ。

私は女を理由に下に見られるのが我慢ならないからその勝負受けて立つけど」


「カッコイイ…」


思わず声に出して言っていた。振り向く桜さんは目を丸くしている。


「桜さん、女の子らしくて凄く可愛いのに芯がしっかりしてるよね」



「スゴク、カワイイ?」


「? うん、スゴク、カワイイです」


繰り返すと桜さんの顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていった。周りの女の子たちも何かを囁き合っていたけど、桜さんが言葉を続ける。


「そ、れは沼だよ純くん、私、入試の時に助けてもらってからずっと星悟先輩推しなのに、いかんよ、ルール違反だよ」


「え、ルール違反? ごめんね?」


「カーッ」


桜さんはひっくり返り、後列の子の膝に頭を預けて「橘の野郎は腹立つけど、今日見学でよかった…」と顔を覆う指の隙間から零した。


ボクも。女の子の友だちと話すのは編入前に戻ったみたいで、また今の“いつも”とは違って。楽しかった。





— — — — — — — —




「おーい紅騎ー?」


「んー?」


「んー? っておま、女子の水着レーンは反対側だけど?

…特進に可愛い女子でもいたの、ベンチの方ばっか見てっけど」



可愛い女子。


その言葉を耳にした時、視線の先には女子と楽しそうに笑う純の姿があったけど、純は女……ではないしなーとぼんやり考えて。

でもああやって女子と並ぶと 純、女子じゃねーか!! と思わずツッコミたくなる自分もいて。

ついでにTシャツを貸した時の衝撃も思い出されて。

いやいやいや。と冷静に踏み留まる。



「相部屋の奴がいるんだよ。心配してんの」


「はーっ! お優しいですなぁ、水も滴る騎士様は」


「……優しい?

どーだろうな」




— — — — — — — —





無事、何とか水泳の授業を後日補習(外周)という形で乗り切ることができた。その達成感と嬉しさ、喜びに満ちてお昼休みになってもまだ一センチ位浮いていた。



「純」


橘くんたちと購買で買った小さなお弁当を広げていると、クラスの男子に呼ばれて手を止める。



「『騎士様』が呼んでるけど」


「あ、紅騎?」


けど? 気まずそうな物言いに首を傾げると、男子はこっそり耳打ちしてきた。


「おまえマジであのイケメンと仲良いの? 大丈夫か? 弱味握られてパシられたりしてんならすぐ橘に言うんだぞ」


橘くん。に?


「純すげーパシリに使われそうだから心配。あんなイケメン相手だと尚更逆らえないだろーし」


何故か身代わりとして差し出されてしまった橘くんはボクの視線を察知しつつ、明らかに開口より大きな唐揚げを頬張ろうとしていておかしい。


「ないない。紅騎は優しすぎるくらい優しいよ」


はっきり訂正しつつ席を立つ。お礼を云って一番近く、教室後方の出入り口に目を遣ると高い背でこちらを覗き込む紅騎の姿があって駆け寄った。


「ふふ」


「え〜。何?」


綺麗な顔立ちをしているのも何かと誤解があって大変なんだなぁと自分には縁のないことを学びにしつつ見上げた紅騎は困ったような表情をしていた。


「ごめんごめん。教室来るの珍しいね——あ、プールの時はありがとう、助け舟出してくれて。

本当に助かりました」


深々…と手を合わせ頭を下げてから、またこういうことをすると周囲に誤解を与えてしまうかもと気付いて、慌てて姿勢を元に戻す。


「いや斑鳩先生、バスケ部の顧問だから言いやすかっただけ」


ほら。今の、聞いててほしかった。紅騎は誰が何と言おうと優しすぎるくらい優しい。

きっと相手が斑鳩先生じゃなくても云ってくれただろうに。


「って何でまた笑ってんの」


「紅騎は優しいなぁと思って」


「…優しくねーよ」


視線を逸らして、拗ねてしまったかと「それで、どうしたの? 教科書借りに来たとか?」と会話を続ける。


「…や、純、腹痛ハライタ治ったか気になって」


「……」


優しいな。


そのまま声に出そうとしたけど、先に伸ばされた紅騎の指先に頬を摘まれてしまう。


「言うなよ?」


「はひ」


言わない代わりにおかしくって、急いで「ほかげさまでなほりました」と言葉を紡ぐと解放された。正確には治ったというより一時的に薬が効いているだけだけど、それは言わないでおこう。


「ん」


次は目の前に美味しそうなマフィンが二つ差し出された。これは購買のやつだ。いつも美味しそうだなぁと気にしつつ、お金の事もあるしいつかいつかと手が出せずにいた。かぼちゃと紅茶の味を示す可愛らしいシールが貼られていて「何が好きかわからなかった」と紅騎。

「どっちも好きだけど」


「これはただのついで、な」


「ついで?」


見上げると、両手に一つずつマフィンが乗せられる。「ほら今日、編入一か月だし?」といつもの悪戯な表情が近くにあって、何だか安心した。


「ありがとう…」


今日は誕生日だったろうかと疑いたくなるくらい紅騎に尽くされている気がするのは、自意識過剰だ、たぶん。


「あと」


まだあるのか。



「これ。もう暑いかとも思ったけど腹痛は冷やさねーのが一番だから」


やっぱり誕生日は今日だったかもしれない。紅騎は腕に掛けていた黒いウインドブレーカーを手に取り「洗濯した後一回も着てねーから」と広げた。思わず顔を近付けてくんくん嗅ぐと「嗅ぐな!」と真っ赤な顔で叱られる。

だから別に疑ってないし気にもしないのに。


もう一度顔を埋めて嗅ぎたいくらい良い匂いがした。


何故だ。紅騎は本当に寮生の皆と同じあの洗濯機で洗濯しているのか? そっちの疑いなら顔を出して、何の匂いもしない己の半袖Yシャツの袖部分を嗅いでみる。


その間に真面目な顔の紅騎がせっせとボクの腹部にウインドブレーカーの袖を巻き付け結んでいた。


「うわ!」


気が付いたら前面に“KAMURO”と大きく、その下にそれよりは小さく“BASKETBALL”と描かれたウインドブレーカーの背中部分が垂れ下がっていた。


「……」

「紅騎?」


「おまえマジで……。寮戻ったら付き合おーか?」



急に黙り込んだかと思いきや呆れ顔になった紅騎。「つきあう?」と聞き返すも彼はボクの背後に目を配って、「筋トレ」と口にした。


「筋トレ? 何でまた」


「ま、その気になったらいつでも声掛けて」


小さく笑み、ボクの頭をくしゃくしゃに撫でた紅騎は満足そうに戻って行った。

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