第16話

唄が、その私の人生の中でのタイムリミットだった。




その時声を掛けなければ。万が一足が竦んだりして木造の床にでも張り付いていたとしたら。この瞬間に、手を伸ばさなかったら彼の浴びる光に触れなかったら。





きっと私は二度と、この声と出会わなかった。








先生、と。



吐き出した真っ赤な嘘は此処に在る全ての本が聴いている。





「は……」





彼がこっちを向いた時、なんて綺麗なんだろうとか思う前に、何故か昔から親しみのあるような『大好き』という滑稽な感情が、急き立った。





海原学を、一人の男の人として眸に映す。






私は駆け出してその距離を縮めて、私を学生と信じて脚立から降り、本を閉じた――――彼の腕を強く引いて。





キスをした。






「…………、……。君は?」






海原学は、一切動揺することもなく。




私の“それ”があってもなくてもそうしたように、声を。





焦った私は、もう一度キスをした。





流石に一度目より抵抗の意を見せて屈めた身体を戻そうと、先生がするから、私は彼の首に両腕を回してにげられなくする、目をきつく瞑って。





キスなんて、初めてじゃない。



したことある。でも。





にげられなくしたのに、にげられないと思う感情に支配されたのは初めてだった。





「……せんせ」





ぷつり、と。




恐らく図書館の高い天井から垂らされていた蜘蛛の糸が切れる音がした。





「――――ッン、ぁ」





本を持ったままの先生の左手が、私の首へと回されて更に深いくちづけを。



先生の唇は熱を持っていた。




私には無い熱。




シアワセの毒、だ。






――――泣きそう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る