慶欧使節団
金森 怜香
第1話
慶長18年の事である。
徳川家康の許しを得た伊達政宗の命を受け、支倉常長は慶欧に向かうこととなった。
「ワシのやれることはなんじゃろうな」
政宗はぼそりと呟く。
「殿がなせることは、野望を持ち続ける事でございましょう」
常長は元気な声で言う。
「野望か……」
政宗は明るい声で返事した。
「天下をというのはもう遠き夢。しかし、国外と友好を結ぶというのも立派な野望じゃ」
日ノ本の外は大航海時代を迎えている。
大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。
植民地活動で先行していたのはカトリックのスペイン、ポルトガルであり、太平洋地域ではスペインはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルはマカオを拠点にしていた。
一方、植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オランダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動をしており、徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現在の大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムスらを外交顧問としていた。
時は4年前にさかのぼる。
慶長14年に前フィリピン総督ドン・ロドリゴの乗ったサン・フランシスコ号が上総国岩和田村に漂着するという事件があった。
サン・フランシスコ号の漂着の原因は嵐である。
この嵐に遭遇して座礁・沈没し、この遭難により56名が死亡したが、残り317名は御宿の人々から衣服や食糧の提供を受けるなど手厚い保護を受けた。
その数日後に、大多喜城主本多忠朝はロドリゴらを城に招いて大いに歓待した。
「此度の嵐は大変であったな。どうぞ、ゆるりと羽を伸ばしていかれよ」
忠朝は船員たちを篤く船員たちをねぎらった。
さらに忠朝の紹介で将軍職の徳川秀忠や駿府の徳川家康とも会見して歓迎を受けた。
彼らは一年間、日ノ本に滞在して支度を整えた。
「せっかくの縁じゃ、もしよろしければこちらの田中勝助らを連れて行ってはいかがであろうか?」
田中勝助、彼は京都の貿易商人である。
「宜しいのでございますか?」
「お主も外の国を見てみたいと話しておったのだろう? 行ってくるといい」
「ありがたきお言葉!」
田中勝助ら計23人は、ロドリゴらとともにヌエバ・エスパーニャのノビスパンに旅立っていった。
ヌエバ・エスパーニャは現在のメキシコであり、当時はスペイン領地であった。ヌエバ・エスパーニャの名の意味も『新スペイン』である。
時は進み、慶長16年。
慶長16年には答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王フェリペ3世の親書を携えて来日した。
しかし家康は、スペイン側の要求であるカトリックの布教を許せば、事実上の植民地化されかねない、というアダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。
「話を聞くだけにしておかねば、この日ノ本もヌエバ・エスパーニャなどのように植民地とされるやもしれませぬ。カトリックの布教は許してはなりませぬ」
アダムスは、家康に口を酸っぱくして、幾度も家康に告げていた。
「殿、書状でございまする!」
家臣の一人が家康へ手紙を運んでくる。
「ふむ……。これは伊達の……」
家康はそう急に書状を開く。
「ふむふむ……、仙台の地とスペインで外交を図りたい、とな」
「いかがなさいますか?」
「伊達政宗は野心家じゃ。軍事交流を図っておるならば、警戒せねばなるまい。しかし、舶来のものなどの交流であれば、やたらと禁止する必要もあるまい」
家康は手紙をもう一度読み直しつつ考える。
「返答を送るゆえ、席を外してくれ」
家康は政宗へと返事を
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