第5話 佐伯拓斗

佐伯拓斗は、最近自分の中でうごめく感情に戸惑っていた。オフィスでの何気ない日常の中で、彼の心の中にはいつも峰木桜子の存在があった。それが仕事仲間としての意識なのか、それ以上の感情なのか、まだ彼自身にははっきりとは分からなかった。


桜子とは入社当初から同期で、同じプロジェクトに携わることが多かった。彼女は控えめで、自分から目立つタイプではない。それでも、彼女の仕事への真剣な姿勢や冷静な判断力は、いつも佐伯の目を引いていた。彼はそんな桜子に対して、仕事上の尊敬の念を抱いていたのは確かだ。しかし、最近のプロジェクトで再び桜子と一緒に仕事をするようになってから、彼の中で何かが変わり始めていた。


「何なんだ、この気持ちは…」


佐伯はデスクに置いた資料に目を落としながら、考え込んでいた。彼女と話すたび、どこか胸が高鳴るのを感じる。そしてそのたびに、自分の感情がコントロールできないことに気づくのだ。


桜子の笑顔、彼女のちょっとした仕草、彼に向けられる一瞬の視線。そんな些細なことが、佐伯にとっては大きな意味を持つように思える。だが、その感情が「恋愛」なのか、それとも「仲間意識」によるものなのか、自分でも分からないのだ。彼は自分の気持ちを見つめるたびに、深い迷いに陥ってしまう。


「桜子に対して、僕は一体どうしたいんだ?」


佐伯は自分に問いかけるが、答えは見つからない。彼女ともっと一緒に過ごしたいと思う気持ちがある反面、今の仕事仲間としての関係を壊したくないという恐れもあった。彼は、これまで桜子との間に築き上げたものがあまりにも心地よく、変化を恐れているのかもしれなかった。


佐伯が、桜子との関係について深く考えるようになったのは、彼女との再会がきっかけだったが、その背景には、入社当初の1年間を同じ部署で過ごした記憶が色濃く残っていた。


新入社員として入社したばかりの佐伯は、右も左も分からず、ただがむしゃらに仕事に取り組む日々を送っていた。社会人としてのプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、同期の中で目立とうと努力していたが、慣れない業務に失敗も多かった。


その一方で、桜子はいつも冷静で、周りの同期たちとも自然と協力し合いながら仕事を進めていた。彼女は目立つタイプではなかったが、地道に努力し、ミスがあってもそれを表に出さず、淡々とこなしていた。佐伯にとって、彼女のそうした落ち着いた姿勢は、当時から目に留まっていた。


「峰木さんって、本当に落ち着いてるよな…」


会議室の準備をしているとき、ふと佐伯が口にした言葉だった。彼が資料を取り違えて慌てていた時、さりげなくフォローしてくれたのが桜子だった。


「そんなことないよ、私も結構ミスするし、焦ってるんだけどね。拓斗くん、あんまり自分を責めないほうがいいよ。みんな最初は慣れないもんだから。」そう言って微笑む桜子に、佐伯は驚いた。彼女の口から「焦る」という言葉が出るとは思っていなかったからだ。


「そうなのか…桜子も、焦ったりするんだな」と、彼はその時初めて、桜子が完璧ではなく、同じように苦しみながら仕事をしているのだと気づいた。


その後、佐伯と桜子は幾度もプロジェクトで一緒に仕事をすることになり、お互いにサポートし合うようになった。特に、プレゼンの準備やクライアントとの打ち合わせ前には、二人で遅くまでオフィスに残ることが多かった。佐伯が分からないことを質問すれば、桜子は自分の手を止めて丁寧に教えてくれた。


ある日のことだった。佐伯は重要なプレゼンを控えていて、資料の内容に自信が持てず、悩んでいた。夜遅くまで一人で残業をしていると、桜子が帰り際に声をかけてくれた。


「まだ残ってたんだ。何か手伝おうか?」桜子は、すでに帰る準備をしていたにもかかわらず、佐伯が苦しんでいる様子を見て、席に戻った。二人で一緒に資料を見直しながら、桜子がアドバイスをくれるたびに、佐伯は少しずつ自信を取り戻していった。


「ありがとう、峰木。君がいなかったら、絶対に失敗してたかもしれない。君はいつも冷静で、すごいな…」


「私だって、プレゼンの前は緊張するよ。でも、みんな同じだと思う。私も佐伯くんに助けられてるよ。こうやってお互いにサポートし合えるのは、いいことじゃない?」桜子のその言葉が、佐伯にとっては救いだった。彼女の存在は、単なる同期ではなく、自分にとって大切な支えになりつつあることを、佐伯はその時強く感じた。


1年が経ち、部署が変わったことで、佐伯と桜子の距離は自然と離れていった。廊下ですれ違ったり、会議で一緒になることはあったが、以前のように一緒に仕事をすることはほとんどなくなった。それでも、佐伯は桜子のことを忘れることはなかった。彼女の冷静さ、優しさ、そして仕事に対する真剣さが、今でも彼の心に残っていた。


そして、数年後、再び同じプロジェクトで桜子と共に働くことになった時、佐伯は内心とても喜んでいた。それまでお互いにそれぞれの道を歩んできたが、今こうしてまた一緒に仕事ができるのは、自分にとって何か運命のように感じられたのだ。


ある日のランチタイム、佐伯はオフィスの廊下で桜子を見かけた。彼女はいつものように真剣な表情でパソコンに向かって仕事をしていた。佐伯は何度か声をかけようとしたが、言葉が喉まで出てこない。なぜこんなにも桜子に対して臆病になってしまうのだろう。


「何を話せばいいんだ?ただのランチの誘いでいいのか、それとももっと…」


そう考えながら、彼は結局声をかけることなく、その場を離れた。彼女に対して何か特別なことを言いたいのに、それが何なのか自分でも分からず、ただ時間が過ぎていくのを感じるしかなかった。


別の日、エレベーターの中で桜子と二人きりになる瞬間があった。二人はお互いに挨拶を交わし、自然な流れで話す機会が生まれたが、佐伯はいつもと同じ「お疲れ様」の一言しか言えなかった。彼女は「お疲れ様」と返し、軽く微笑んでみせたが、その笑顔を見るたびに、彼の胸は締め付けられるような感覚に襲われた。


「もっと何か話すべきだったのに…」


佐伯は自分にそう言い聞かせるが、結局何もできなかったことに後悔が残る。彼女と話しているとき、心の奥底で彼女に対してもっと親しい言葉を投げかけたいと思う自分がいる。しかし、それ以上の言葉が出てこない。それは、彼自身の中で何かがブレーキをかけているからだった。


「この気持ちは何なんだ?彼女に対してただ感謝しているだけなのか、それとも…」


佐伯は自分自身に問い続けるが、答えは曖昧なままだ。桜子と話しているときは心地よく、彼女の笑顔が見られると一瞬だけ自分が特別な存在に思える。だが、次の瞬間には、彼女が他の同僚にも同じように接しているのではないかという不安が湧いてくる。


「僕は彼女にとって、ただの同期なんだろうか。それとも…」


佐伯は、自分が桜子に対して抱く感情がただの「仲間意識」だと考えることで、自分を安心させようとしていたのかもしれない。だが、それが本当の気持ちでないことは、彼自身が一番分かっていた。


彼は桜子のことをもっと知りたい、もっと近づきたいという強い思いを感じていた。しかし、その一歩を踏み出す勇気が出ない。もし彼女に対して自分の感情を伝えたとして、それが今の関係を壊してしまうことを恐れているのだ。


ある日の昼休み、佐伯は思い切って桜子にランチを誘ってみようと思った。オフィスの廊下で彼女を見かけたとき、佐伯は意を決して声をかけた。


「峰木、ランチに行かないか?」


その瞬間、彼の心臓は大きく跳ねた。何気ない誘いだが、彼にとっては大きな一歩だった。


桜子は少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔で答えた。


「ごめんね、午後から会議で使用する資料がまとまってないの、。もう少しでできるから残ってやっていくね。今度ぜひ誘ってくれる?」


彼女の言葉は軽やかで、決して断るようなものではなかった。しかし、佐伯の心にはほんの少しの落胆が残った。彼女にとっては、ただの一日限りの予定なのかもしれないが、佐伯にとってはこの小さな断りが、彼女との距離をまた一歩遠ざけたように感じられたのだ。


「そうか…わかった。また誘うよ」と、笑顔を作りながら答えたものの、彼の心には満たされないものが広がっていた。


佐伯は、桜子との何気ないやり取りの中で自分の心が揺れ動くのを感じるたび、彼女に対する思いが単なる「仲間」ではないことを痛感していた。だが、それが本当に「恋愛感情」なのか、自分の中で確信が持てず、どうしても行動に移すことができない。


「彼女にとって、僕はどういう存在なんだろう?」と、佐伯は再び自問自答を繰り返す。彼女の言葉や表情に敏感になり、自分が彼女の目にどう映っているのかが気になって仕方がない。


「このまま何もしないままでいいのだろうか…」彼の中には、今の距離感が心地よい反面、それ以上の関係に進む勇気が出ないという葛藤があった。


佐伯は、桜子と一緒に過ごす時間が好きだった。仕事の会話や、ちょっとした雑談でも、彼女とのやり取りが心の支えになっていることは確かだ。しかし、彼はその関係が壊れてしまうことを恐れていた。今の関係が壊れてしまったら、もう桜子とは以前のように話せなくなるかもしれないという不安が、彼を動けなくしていたのだ。


佐伯は一人、オフィスの窓際に立ち、遠くを見つめた。冬の風が冷たく、街はクリスマスのイルミネーションで賑わっていたが、彼の心はそれとは対照的に曇っていた。


「僕はどうしたいんだ?彼女に伝えたいことがあるのか、それとも今のままでいいのか…」


佐伯の心は依然として迷い続けていた。彼女との関係を大切に思う気持ちと、もっと彼女に近づきたいという強い思いが交錯し、彼は自分の気持ちを整理できずにいた。

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