第5話

「さぁ、天才ピアニストさんの登場だぞ」


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「やぁ、よく来たね。アミューズは奥にいるよ」

廊下を挟んだ扉の向こうで話すフランクの声が聞こえる。立ち話をしているのだろうか、なかなか目の前の扉が開く気配がない。

ついさっきフランクから聞いた天才ピアニストの話を振り返る。

11歳で才能の片鱗を見せた少年_。

真っ白なキャンパスに単色の絵の具を溶かした水をぶちまけるように、脳裏に鮮やかな記憶が蘇ってくる。

初めて他者の才能に触れ、ひれ伏し、それでも自分の音楽を曲げることを許せなかった愚かな少年の姿が瞼に浮かぶ。

あの時、あの瞬間だけでも楽譜に正直に弾いていたら_。

そこまで考えたところで慌てて広げかけた妄想を振り払った。

後悔しても無駄だ、何より今はそんなことを考えている時ではない。

再び意識の焦点を天才ピアニストに当てる。

フランクの説明を聞く限り、彼はかなり波乱な人生を歩んできた事が分かる。フランクに出会えたことで多少薄れてはいるだろうが大人への警戒心は並のものではない筈だ。

となると“何故僕の右腕の様になることに了承したのか”これが一番の疑問になるが_。

「アミューズ、待たせたね、彼を通してもいいかい?」

そこまで考えたところでフランクが扉を開け、顔を出した。

「あぁ、頼む、念のため君も一緒にいてくれ」

分かったよ。そう言って再び扉を閉じた。

安楽椅子から立ち上がり姿見の前に立って身なりを整える。

やけに緊張しているようだ。深呼吸をしてから再び安楽椅子の前に立ち、天才ピアニストが入ってくるのを待つ。

「それじゃあ、入れるよ」

そう言いながらフランクがドアを開けるのと同時に紺色のコートを着た青年が入ってきた。

「初めまして、ルワンダ・レイムズといいます、お待たせしてしまってすみません」

レイムズと名乗ったその青年は軽い自己紹介を始めたが、その半分はアミューズの耳に入ってきていなかった。

“美しすぎる_。”

レイムズは19歳とは思えないほど長身で足が長く、長い黒髪を後で一つに束ねていた。

顔のパーツ一つ一つが端正で鼻が高く睫毛が長い、おそらく美という単語をそのまま具現化すれば彼のような人間が出来上がるだろう。

彼がピアノを弾いている姿を思い浮かべてみる。ピアノの前に座り鍵盤に触れる彼から生み出される音はこの上なく穏やかで繊細な音だった。

フランクから聞いた話では荒いピアノが彼の演奏スタイルのようだったが、今目の前にいる彼の姿からは想像もできない。

「…アミューズ…?」

そこまで考えを広げたところで、レイムズの後で見守るように彼の話を聞いていたフランクの声で我に返る。

「ん?あ…あぁ、すまない、アズベルト・アミューズだ。君に会うのを楽しみにしていたよ」

慌てて挨拶をすると僕の沈黙に困惑の色を見せていたレイムズの表情が緩んだ。

「ありがとうございます。フランク先生から大体の事は聞いているので…どうでしょう、ピアノのある部屋に移動しましょうか?」

レイムズは文字通り美麗な笑みを浮かべながら問いかけた。

「そうだな、それがいい。楽譜を持っていくから先に行っていてくれ」

分かりました。そう言ってレイムズが部屋を後にした。

レイムズが出ていったあと、口から無意識に溜め息が溢れる。

「またとんでもない天才を連れてきてくれたな、フランク」

溜め息混じりにそう言うとフランクは何とも言えない笑みを浮かべ、口を開いた。

「美しいだろう?あのぐらいの方が君に似合うよ」

そう言うとフランクもそそくさと部屋を後にしてしまった。

部屋に一人残され、姿見に写った自分を見つめる。


“これが最後のチャンスだ_。”


そう自分に言い聞かせながら楽譜を持ち、未だ人間の温もりを保っている部屋を後にした。


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