第1話
十一歳になれば誰もが授かれる神様からの贈り物、リティス。魔法でさえ不可能と思われるような能力がひとつだけ与えられる。空を飛べるものであったり、女神の加護を受けてすべての魔法がリスクなく使用できるようになったり。
時たまはずれとも言われるあまり使えないリティスもあるけれど、どうやら私のそれは、そちら側に位置するようだった。
時巡りのリティス。
生涯において一度だけ対象を過去へ飛ばすことのできる力。ただ、過去改変の恐れがあることから、貴重な品を集めて祭壇へ捧げた上で、術者の強大な魔力を必要とし、術者の命を鍵として発動する、一度限りのゴミリティス。存在自体は知っていたけれど、今まで使われた記録も残っていないどうしようもないはずれのリティスだ。
「お前はリティスからも見放されるのか! 役立たずのグズが」
言葉とともに振り下ろされた鞭は容赦なく私の皮膚を裂く。もう何度も振るわれて、跡になって、治らぬうちにまた打たれて。慣れた行為ではあるものの痛みはいつも新しく、弱った皮膚は血を滲ませるだけで私を守ってはくれなかった。
離れといえば聞こえが良いくらいのボロボロの小屋に放り込まれ、今日のお勤めが終わる。明日は公爵様がお戻りになるからまた殴られる回数が増える。せめて、痛みを感じなくするリティスを授かれたなら良かったのに。
……おなか、すいたな。
口の端の血を舐めて、少しでも空腹感が減ればと思う。味がするものは美味しい。血は美味しいけど、おなかは膨れない。悲しい。辛い。戻りたい。お母さんが作ってくれたマフィンが食べたい。お父さんにいっぱい食べられて偉いなって、褒めてもらいたい。戻りたい。戻りたい。あの頃に、戻りたい。一度だけでも。
思ってもリティスは発動しない。
今の私には、命をかけたとしても授かったリティスを発動できる魔力もないから。
お水、飲みたい。飲まなきゃ。川から汲んでこないと。体はいつ動くだろう。足が折れてないと良いけれど。おなかすいたな。お水飲んでないから涙も出ないや。明日はゴミも出さなきゃいけないから早起きしないと。早く、動いて。お水。おなか。
その考えも吹き飛ばしてしまうかのような爆音。そして、少し遅れて悲鳴が聞こえてきた。
何かあったんだろう。まあ、何かあったから悲鳴がするんだろうけれど。わたしもにげたほうが良いんだろうか。体は動かないから、その疑問の答えもすぐに出るのだけれど。
このまま死ぬのかな。誰も助けてはくれないだろうし。最後にお水だけでも飲んでおくんだった。でも、明日からは痛くないのかも。それなら、まあ。いいかな。
しばらく何かが壊れる音がして、誰かが泣く声が聞こえて、またしばらくして静かになった頃。小屋の戸が開けられた。入ってくる光に驚いたのか、虫とネズミが散っていった。
「君は……」
それは、何故か悲痛そうな声を出し、血塗れでボロ布のような私を豪華な調度品でも扱うかのようにそっと抱き寄せた。
ああ。
「……ごはん」
最後に、おなかいっぱい食べたかった。
* * *
目覚めはとても気持ちが良かった。
体を包み込む温かいお布団。少し動けばスプリングが軋み、ベッドに寝かされていることが分かる。ベッドで寝られるなんて何年ぶりだろう。何もかけずに口に砂をつけて寝なくて良いなんて夢みたいだ。
夢かな。
夢かも。
だとしたら、もう少しだけこのままこの世界にいたい。痛みすらも感じない心地良さを味わっていたい。目覚めればまたすぐに痛みが襲ってくるのだから。
そうしてしばらく寝て、起きてもまだベッドの上にいて、寝て、起きて、ベッドにいて。何かがおかしいことにようやく気付いた。
夢じゃない。のかも、しれない。
「ああ、起きてた? 起きてた」
それは、入り口の洋燈に火を灯し入ってきた。モノクルをつけ、白衣を着ている姿から医者のようにも見える、言葉を話す二足歩行のうさぎ。
「ま、もの?」
「少し、喋れる? そうですか」
言葉を話す魔物は初めて見る。彼か彼女かは分からないが、そのうさぎ魔物は寝たきりの私の体をふんふんと診察し、何か思い当たったような顔をして備え付けてあった連絡機を使って誰かと会話し、また戻ってきた。
「動ける? 動ける」
どうやら動かしてみて、ということらしい。ゆっくり左手の指から、手のひら、足の指、腕、足。動くことを確認してゆっくりと体を動かしてみる。やっぱり、あんまり痛くない。
「まだ痛い? 痛い? ごめんね」
このうさぎ魔物が謝る理由は全くないのだけれど。よく分からないが治療をしてくれたらしい。
「あり、がとう。ござ……ます」
魔物語はあまり使っていないから自信がなかったけれど、身振りと合わさってどうやら通じたようでうさぎ魔物はぱっと表情を明るくした。良かった。
「目が覚めたかい?」
数回のノック音の後、入ってきた人……人型の魔物なのかもしれない。彼は、湯気の出る皿を持ち、聞き覚えのある穏やかな声でこちらに問いかけた。
「大丈夫、言葉は分かる?」
大半の人間が使う大陸語だ。ならば、人間なのだろう。同じ大陸語で答えようとしたが、
「スープ。飲む、少し」
うさぎ魔物に遮られた。野菜のスープだろうか。香りは優しいはずなのに、刺激されたように唾が出てきてしまう。うさぎ魔物はスープ、スープと少し騒がしい。
「ああ、飲めたら、飲んで。言葉、分かる、よね」
返答がなかったせいか、彼は同じ大陸後で口元を指してゆっくりと話してくれた。
「発言させていただいても、大丈夫でしょうか?」
そして、私の言葉に虚をつかれたような顔をしたが、
「どうぞ」
優しい笑みを浮かべて促してくれた。
「ええと、大陸語は分かります。大丈夫です。話すこともできます。このスープは、本当にいただいてもよろしいのですか?」
「もちろん」
嬉しい。先ほどから歓声をあげるかのようにおなかが鳴っている。早く、ああ。早く食べたい。早く、認めのお祈りをしないと。
「汚れた血を持つ卑しき私に施しを与えてくださってありがとうございます」
目を瞑り、いつもの祈りを捧げる。
「この御恩は愚かな私の脳にも刻み込み、決して忘れないことを誓います。醜い私が生きていけるのは公爵様の……? あ」
しまった。この人は公爵様ではない。
「大変申し訳ありません。私がお呼びして良い呼び方を教えていただけますか?」
彼は何かを言おうとして、やめて。少し逡巡してから口を開いた。
「僕、君、同じ」
それは、北方にある小さな村で使われる言葉。
「上下、ない。同じ一緒」
私の、母国語だ。
「ごめん、単語しか話せなくて。分かるようであれば、こちらで話させてほしい」
すぐに大陸語に戻ってしまったけれど。私の出身を、あの村を知っている人がいるなんて思わなかった。
「北方のあの村の人間を差別する地域があるのは知っている。ただ、君は……君達は、汚れてもいない、普通の人間だよ。もう、あんなことは言わないでくれ」
人間に似つかわしくない左右で異なる瞳の色を持つ部族。その醜い瞳を持つ汚れた血を殲滅するために何年も前に部族の村は人間によって焼き払われ、わずかな生き残りは好事家に売られて、下等生物として生きる権利を与えられた。
「は、発言を」
「会話にね、許可は要らないんだよ」
どうしよう。優しくされている。それは分かる。なのに。
言葉が出てこない。
今までの生き方と違いすぎて、どう話していいか分からない。昔、お父さんとお母さんがいた頃は、私はどう話していたっけ。
「すーぷ……」
沈黙を破ったのはうさぎ魔物だった。スープが少し冷めたのを気にしてか、耳が折れてしゅんとしている。
「ごめんごめん。とにかく食べて。祈りが必要なら……。ほら、君のいた村ではお祈りの習慣があったと思うんだ。今感謝したいものとか、嬉しいこととか。そうした身近なものに感謝して、いただきますって」
そういえば、以前は家族でそうしていた。優しい記憶を辿り、
「温かいお布団とふかふかのベッドと……貴方様と、貴方様と、私のために摘み取られた命と食べられる喜びに、感謝します」
祈りの手を、合わせ手に変える。
「いただきます」
色々な野菜がくたくたになるまで煮込まれたそのスープの味は、よく分からなかった。久しぶりすぎて、温かくて、優しくて。
全て飲み切ってお腹を壊した。
「いきなり、だめ。少し、少し」
「すみません……」
ゆっくり少しずつ食べないと消化不良を起こすほど、私の胃は弱っていたらしい。うさぎ魔物が調合してくれた薬を飲み、治癒魔法をかけられてまた一人になる。そうか、あのうさぎ魔物が治療してくれたから、痛みが和らいでいたんだ。
部屋は、静かだ。うさぎ魔物はお喋りらしく時たま分からない言葉も話していたが、せっせせっせと私の世話を焼いてくれていた。人からはゴミのように扱われるのに、魔物からは人扱いされるのは、なんだか不思議な気分だった。
静かな暗い部屋を寂しく感じるのも。
殴られないですむ、休める貴重な時間だったはずなのに。たった1日でそんなことを思うなんて。やはり、夢なんじゃないかと思いながら、また眠りにつく。
そして、夢から醒めるのは、案外と早かった。
「君を殺すためだよ」
翌朝。様子を見に来た彼に、何故自分を助けたのかという、当然とも言える質問をした。してしまった。
「僕は過ちを犯した」
「戻りたい過去がある」
「ただ一つやり直したい選択がある」
「そのために時巡りのリティスを持った人間をずっと探し続けてきた」
「誰かがそのリティスに目覚めることを、ずっと、ずっと待っていた」
「七十八年と三ヶ月と九日」
「後悔しない日は一日となかった」
「時巡りが術者の命を奪うことは分かっている」
「何のために助けたと思うのかもしれない」
「君には何の罪もない」
「それでも」
「そうだとしても」
「君だけじゃない。誰を殺しても、何を奪ってでも、僕は戻らなきゃいけない」
独白のように。私を殺すと言いながら、責め立てる言葉は自らを絞め殺すかのように。
「世界を、正すために」
人一人の選択をやり直したとしても、きっと世界を変えることはできないだろう。
「大陸語を話すのは人間だと、軽率に判断していました。申し訳ありません」
彼は、昨日私を助けたアレと同じ声の持ち主の彼は。
「あのままでは死ぬのも時間の問題だったと思います。空腹と激痛で、意識も朧げでしたから」
多くの人にとって御伽噺の存在であり。
「救っていただいた命。好きに使っていただいて構いません」
いつでも人を血肉に街は焦土に営みは無へと変えてしまうことのできる、圧倒的な畏怖すべき存在。
「ただ」
八十三年と七ヶ月と十二日前に消滅し、七十八年と三ヶ月と九日前に復活した。
「死ぬ前には、おなかをいっぱいにしていただけると嬉しいです。魔王様」
世界の実質的な支配者。魔王その人だった。
いや、人というのはおかしいか。昨日見た姿が、魔王本来の姿なのだろう。
「……ありがとう。善処するよ」
これが、私と彼の物語の始まり。
魔王が人を一人殺すだけの、なんてことのない御伽噺だ。
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