第102話

曇り空の下でも、全然寒くなかった冬。



低めのヒールに似合わない脚を滑らせてから会社に着くまでの間、ずっと熱を持っていたほっぺは、数日間限定だった。




あれがあった日、私は、何と口にしたか憶えてもいないような理由(いいわけ)を並べ、彼の家には帰らなかった。


相良さんの最後の表情だけが頭の中に今も色を残している。



翌日、



外より、何度も高くまで暖房によって暖められた室内。オフィスへ向かう途中で私を呼ぶ声を耳にする。



かんな、って。



けれどそれは私が振り返ると、阿部、に呼び方を変えた。



心臓の辺りまで伸びかけた手を握りしめてくちびるの端から零れた台詞は――『ごめんなさい』。




何か言おうとしてくれた相良さん。



…大好きな人。




指からも、肩からも抜けない力。左肩に掛けた鞄の、奥の奥の方に大切にしまってある鍵。



私の頭の中はそのことへの結論をずっと急いでいて。


私に心の中はただ幸せだったたった数日間を、忘れられずに、もう一度、と意地汚く望んでいた。



けれど結論は、殆ど、もう。


だって私は、今日か、明日か、明後日か――――また相良さんと同じ家に帰れている自分をもう、想像できない。




この鍵は、相良さんを、大好きな人を護る為の鍵。




…きっと今は、渡された時のように熱も持っていない。



熱から冷めるのも夢から醒めるのも、時間の問題。



この鍵一つでわたしの夢のような時が醒めることより、この鍵一つで相良さんと離れ離れになったりして、働く貴方を見れないことの方がと思った。思うと、ぞっとして。




頭は何よりも早く、今を把握して、今私に何ができるのかを教えてくれた――――。

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