カプチーノをあたためて Detective awakening

カプチーノをあたためてⅠ

 瀬名せなみどりは、読んでいた恋愛小説を閉じて吐息を漏らした。それはつまらなかったとかでは断じてなく、強いていえば火照った体から蒸気が出たというほうが近い。

 簡単に読んだ感想を語るとすれば、ありきたりなシンデレラストーリー。トントン拍子に話が進んだかと思えば、ちょっとしたすれ違いが起きて、最終的にはお互いめでたく結ばれる。結局のところ、悲哀をテーマにでもしていない限り、大抵は紆余曲折の後、ゴールインするものばかりだ。現実でも、それぐらい簡単にいけば苦労しないというものだ。

 みどりは横目で教室の窓際に座っている男子を盗み見る。男子は、今日も何かの本を読んでいた。背表紙に蔵書印があるのでみどりと同じく図書室で借りた本だろう。左手で持っている方のページが僅かなところからして、間もなく読み終わる。そう思って、みどりは彼を見つめた。

 今日はやや曇りで、いつもの殺人的な暑さからは開放されている。教室の冷房は省エネ設定なのか、ある一定の温度から下がらないようになっておりあまり快適とはいえない。だが、彼はいつも涼しい顔をして本を見つめている。その姿が何だか愛おしかった。

 彼が本を閉じたのを見届けて、みどりは席を立つ。お昼休みの教室で、生徒はまばらだ。こちらの様子を気にする人はいなかった。

冴木さえきくんは、読書感想文にするの?」

 声を掛けると、冴木はみどりを見てからゆっくりと頷いた。少しだけ、まだ本の余韻に浸っていたかな、と後悔した。

「うん。みどりちゃんは、どっち?」

 どっち、というのは夏休みの課題の一つである作文の宿題のことだ。生徒はそれぞれ読書感想文か、生活作文のどちらかを選んで提出することになっている。生活作文のほうが必要な原稿用紙枚数が多い分、敬遠されているが作文コンクールへの応募などもされるとのことで評価にはつながるらしいともっぱらの噂だ。しかし、貴重な夏休みになんでそんなに文字を書かなければいけないのだと、文字数の少なくて済む読書感想文を選ぶ生徒が大半だった。

「わたしも、読書感想文かな。読んでた本もあったからちょうどいいかなって」

「やっぱり、そうだよね。枚数少ないから効率がいいし」

 そういって冴木がみどりの机の上に視線を向けた。

「読み終わった本、返すんだったらついでに僕が持っていくけど」

「え、そんな悪いよ。わたしそんなつもりで声かけたわけじゃないって」

「そう? そのほうが効率がいいかなって思ったんだけど」

「冴木くん、優しいね」

 みどりはうっかりと思ったことを口にして赤面した。これまであまり男子に面と向かっていうことがなかったのもあるし、今しがた読んでいた恋愛小説にも似た台詞があったのだ。

「優しい……のかな」

 冴木が難しそうな顔をした。

「ただ、都合が良いってだけだよ。本を一冊返すのも、二冊返すのも殆ど労力は変わらない」

「わたしが本を返す手間を担ってくれるんだから、優しいであってるんじゃない?」

「そうかな、僕にとって優しい人っていうのは矛盾を許容できる人だと思う」

「なんか、難しい。そういう本読んでたの?」

「え? いや全然違うよ」

 冴木が本の表紙を見せてきた。本当は恐ろしいグリム童話、と書かれている。

「……ホラー?」

 みどりはホラーが苦手だった。しかし、冴木は首を横に振る。

「普通に童話。ちょっとグロテスクかもね」

「じゃあ、読めないかも」

「みどりちゃんには向いていないだろうね」

 それはどういう意味だろう、とみどりは眉を寄せた。しかしすぐに、グロテスクなものが好きな女の子とは思われていないのだと納得する。なんだかそれはあまり可愛くない。どうせなら可愛いものが好きな女の子、と思われていたいものだ。

 冴木との会話に花を咲かせていると、教室の後ろのドアが勢いよく開いた。

 思わず音の主を見ると、同じ六年一組の瓦田かわらだ朱莉あかりが立っていた。ハーフツインで、白い花の髪飾りをいつもつけている。やや吊り目がちの瞳がみどりを捉えると、脇目も振らずに近寄ってきた。

 手には、ベージュのトートバッグが握られている。表面にカプチーノのイラストがあって、周りに音符やらト音記号が浮かんでいる。朱莉が良く使っているトートバッグで、中身はいつも楽譜などが入っている。きっと合唱コンクールで演奏する楽譜を貰いにいっていたのだろう。みどりもピアノは弾くことが出来て、音楽の授業で任されることもあったが、朱莉は毎年、合唱コンクールで伴奏を任されるほどの腕前なのだ。

「みどり、こないだの件、覚えてるわよね?」

「えーっと、なんだっけ」

 本当は朱莉がなぜわざわざ来たのか、みどりは感づいていた。でも、ここでとぼけたフリをしていれば「もういいや」と言われるかなという希望的観測があった。

 しかし、朱莉はひかなかった。小さく嘆息したかと思うと、いまだに朱莉に視線を向けている他の生徒を睨み返した。かと思えば、今度は微笑を浮かべてみどりに向き直る。もう誰も、こちらを見ているものはいなかった。

「もうすぐ夏休みでしょ。また今年も頼むからねっていったじゃない。後になって無いってなったら困るから」

「その話ね……。やっぱりやめたほうがいいと思うんだけど」

「去年は何も言われなかったでしょ。それに、いいの? そんなこといって」

「でも、うん……。分かった」

 みどりは渋々といった様子で頷く。それを見てか、朱莉が小声で付け加えた。

「今年は、生活作文ね」

「え、どうして?」

「別にいいでしょ。じゃあそういうことだから」

「ま、待ってよ」

 朱莉はさっさと一番前の自分の席に戻っていってしまう。机の横にトートバッグをかけていたが、すでにそこには給食袋も掛けられていて足元が窮屈そうだった。朱莉の給食当番が終われば、あの給食袋も渡されるだろう。週末に家に持ち帰って洗濯して、翌週次の給食当番の子に渡すのがルールになっていた。その役目すらも、みどりは押し付けられている。

 だがそれはどうでもよかった。洗濯なんて洗濯機に入れるだけだ。給食袋は大した重さもないからあまり負担ではない。それとは別の憂鬱な気持ちが、みどりの胸の中でぞわぞわと蠢いていた。

「大丈夫?」

 不意に、声をかけられてみどりはどきりとする。見ると、冴木が不安そうな表情でこちらを見ていた。なんだか暗い表情は見せたくなくなって、努めて明るく振舞った。

「大丈夫だよ」

「そうは見えなかったよ」

 冴木がさっきまで朱莉が立っていた場所を見つめている。もちろんそこには何もないのだが、冴木は何か考え事をしているのかじっと視線を固定したままだった。

「何か押し付けられているんだったら、先生に言ったほうがいいと思うよ」

「いいの、やめて」

 思わず強い口調になって、みどりは口元を押さえる。だがちょうど騒がしい男子グループが教室に戻ってきたところで、誰もこちらの様子を伺っている者はいなかった。

 冴木は驚いた様子もなく、ただじっとみどりの表情を伺っている。何だか冴木に隠し事をしていることが苦しくて、というよりも自分一人で抱えている問題を少しでも同情してもらって軽くなりたいと、考えてしまった。

「なにか、さっきの子とのあいだにあったんだよね? ええと、瓦田さんだったよね」

 冴木がまるで子供に言い聞かせるように言う。

「うん……ちょっとね」

 みどりは重々しく呟いて、近くの椅子に腰かけた。朱莉に声が届かないように、声量を落とす。

「うちね、家がお弁当屋さんなの冴木くん知ってるよね?」

「うん。前にきいたよ。商店街のでしょ?」

 冴木も声のボリュームを落としてくれたが、元から声があまり大きいほうではないので、みどりは少しだけ椅子を近付けた。

「そうなの。それでさっきの子……朱莉ちゃんっていうんだけど、塾が遅くなったからってお母さんと一緒にそこでお弁当買っていってくれたんだ。そうしたら、お弁当の中に長い髪の毛が入ってたっていうの」

 冴木は頷きもせずにじっとみどりの目を見つめている。気恥しさよりも、自分の話を真剣にきいてくれているというのが、みどりにとっては嬉しかった。

「でもね、うちのお母さんは髪の毛短いし、頭髪キャップっていうのを被って作ってるから髪の毛なんて入らないと思うの。でもそういったら、私が嘘つきだっていうのかって逆上して、弁当がまずかったって言いふらすぞって」

「それは、あんまりだ」

 恐らく朱莉も、言ってしまった手前引けなくなってしまった部分もあるのではないかとみどりは思っていた。彼女は低学年のときからそうだったけれど、こうだと思ったものは曲げないタイプで、周りもどちらかといえば甘やかしている印象があった。

「それでね、そんな噂が流れたらみんながお母さんのお弁当を食べてくれなくなるんじゃないかって思って、やめてって言ったの。そうしたら条件を飲んでくれたら言いふらさないって言われたの」

「それがさっきの交渉の話に繋がるんだね?」

「うん。去年は口止め料に、夏休みの読書感想文を要求されたの。それで済むならそれでもいいやって思ったの。だって、朱莉ちゃんはみんなと仲がいいし、嫌われたらみんな遊んでくれなくなるかもって思って」

 朱莉はクラスメイトの人気も高く、みどりとはクラスでの地位が違う。彼女が一言、みどりちゃんとは仲良くしないと言い放てば、それに追従するクラスメイトが少なからずいるだろう。ちょっとしたきっかけで、女子の輪からは外されるものなのだ。

「そうしたら、今年は生活作文を書いてこいときたわけだ」

 冴木は腕組みして鼻を鳴らした。あんまりだ、と思ってくれているようで、みどりは内心ほっとした。どうして強く反論しないんだと呆れられるかもと思っていたからだ。

「冴木くん、この話は誰にも言わないでね。朱莉にバレたり先生にバレたりしたら私……」

「言わないよ。でも、みどりちゃんはこれでいいの?」

「よくは……ないけど。もう分かったって言っちゃったから」

 みどりは無理に笑ってみせた。朱莉とのあいだに、これ以上波風は立てたくない。下手をすればこれ以上のことを要求されたり、やっぱり髪の毛が入った弁当を売る店だとデタラメを吹聴ふいちょうされるかもしれない。そうなれば、去年の努力が水泡に帰す気がした。

 冴木が何かいいたそうにしていたが、予鈴が鳴ってこの話は自然と終わりを迎えた。

「じゃ、そういうことだから冴木くん。他言無用だからね。聞いてくれただけで少しすっきりしたよ。ありがとう」

 みどりは席を立って自分の席へと移動する。教室の外に遊びに行っていた残りのクラスメイトたちが戻ってきて全体的にざわざわと教室内が慌ただしくなる。ぼそり、と冴木の呟きが耳に届いた気がした。

「……二つも書くなんて効率が悪いよ」

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