万札おじさんは一夜っきりⅢ

 残り十五分ぐらいで、シフトが終わる。次にシフトに入る子は真面目な子で五分前にはレジにやってくるだろう。みれいは、特にやることもなかったのでぼんやりとレジ立っていた。

 結局、陽子先輩の言っていたことはよく分からず、悶々としながら時計と睨めっこしていると、ドアベルが来客を告げた。慌てて笑顔を作って、接客をする。

「いらっしゃいませ」

 客として現れた眼鏡をしている中年の男は、きょろきょろと辺りを観察してからレジの近くにあるテーブルに腰かけた。メニュー表を手にとり、吟味している様子だったが五分ほど経っても客はうんともすんとも言わない。それどころか、眼鏡の奥にある瞳は、メニュー表ではなく厨房のほうに向けられているように感じた。テーブルには店員を呼ぶ用のボタンが置いてあるのだが、それに気づかずに店員を呼びたいのかもしれないと思い、みれいはそそくさとテーブルに向かう。

「ご注文はいかがなさいますか?」

 接客モードと変貌しているみれいが笑顔で促すと、ようやく男は慌てたようにメニューに視線を落として、定番のサンドウィッチとホットコーヒーをオーダーした。

 同時に、背後から何かの視線を感じた。

 みれいは素早く振り返る。

 しかし、厨房の奥にはバイト君が一人いるだけで、皿を拭いているところだった。

 みれいは切り替えて、厨房へオーダーを伝える。ホットコーヒーを用意してお盆に載せていると手際のいいバイト君がすぐにサンドウィッチを作り終えてもう次の作業をし始めていた。これで同じ時給を貰っていると考えると、もう少し頑張ったほうがいいのかも、とみれいは思った。

 出来上がったサンドウィッチと、ホットコーヒーを運ぼうとしたところで、どこからともなく現れたオカマ店長に声を掛けられた。

「アリスちゃん、お疲れ様。もうあがりの時間よ。久しぶりで疲れたでしょう」

「ああ、いえ。これだけ運んだらあがりますわ」

「いいのよそれぐらい。残業はナシなのがうちのモットーよ」

 壁に掛かっている時計を見る。まだシフトが終わるまで五分あった。とはいえ、店長がいいと言っているのだから、無理に働く必要はないか、とみれいは納得した。

 オカマ店長が商品を運んでいき、何か話していたかと思うとすぐに戻ってきた。

「店長、陽子先輩が探していましたけれど話はできましたの?」

 エプロンを外しながらみれいが言うと、オカマ店長は笑顔で頷く。

「ええ。ようやく私もまとまった休みがとれそう。陽子ちゃんになら、色々任せられるからね」

「わたくしに任せてもらっても大丈夫ですわよ」

「まぁ……そうね」

 オカマ店長はやれやれと言った様子で頭を振った。

「お店が倒産しても、アリスちゃんのとこが買い取ってくれるなら任せるわよ」

 他愛ない話に花を咲かせていると、オカマ店長の携帯が鳴った。オカマ店長が「ちょっと失礼」と、やや離れた場所に移動する。何にせよ、これで今日の仕事は終わりだ、とみれいも事務所に向かおうとしたところで、レジの前に先ほどの客が立っていることに気付いた。エプロンは外してしまったが、会計ぐらいはいいだろう、とレジに立つ。

「ありがとうございます、お会計が七百二十円です」

 男はポケットから革製の財布を取り出すと、お札を一枚抜きとってレジに置いた。それを見て、みれいは事務的に作られた笑みを崩す。

 一万円札だ。

 どくん、と心臓がひと際大きく脈打った。

 しかしまだ断言は出来ない。それに、陽子先輩は今日は来ないと言っていた。みれいは心を落ち着かせて、冷静にお札を拾い上げる。

「い、一万円お預かりいたします」

「あ、お釣りは結構です」

 みれいは一万円札を持ったまま固まった。

 まさか、この人が噂の万札おじさんだったとは、想定もしていなかった。ちらりと男に視線を向ける。眼鏡の奥の目は、こちらを見ていない。どこか気まずそうにも見える。第一、たかだかサンドウィッチとホットコーヒーに一万円とは、理解が追い付かない。それでも何とか理性を保てたのは、事前の情報のおかげだろうか。次第に、差額を抜き取ったら小遣いになるのではという悪知恵までもが働いてきた。

 しかし気付くと、隣に電話を終えたのかオカマ店長が立っていた。みれいは何か言おうかと思ったがそのまま会計を済ませる。

「ありがとうございました」

 まるで何事もなく立ち去っていく万札おじさんに、みれいは合掌して金運上昇を願った。

「アリスちゃん……何してるの?」

 合掌したまま動かないみれいを見て、オカマ店長が声を掛ける。

「あ、オカ……じゃなくて店長。合掌、合掌したほうがいいですわよ」

「は?」

 みれいが万札おじさんの噂のことを説明すると、オカマ店長は腹を抱えて大笑いした。

「いやぁ傑作ね傑作! そんな噂があったとは」

 オカマ店長は涙さえ浮かべている。

「あー、お腹いたい。まぁでも陽子ちゃんにしては、早計だったわね」

「なんのことですの?」

 そうこうしているうちに、万札おじさんはもう姿が見えなくなっていた。そしてオカマ店長も、「もうあがっていいからね、お疲れ様」と言い残して事務所のほうへ向かっていく。入れ違いで、次のシフトの子の姿が見えた。

 みれいは万札おじさんとの予期せぬ出会いに高揚しつつ、レジの前から移動しようとしたところで再びドアベルが鳴った。お店の入口を見ると、見知った顔が入ってきた。

「あっ」

 みれいが思わず驚きを露にすると、入店した人物も一瞬歩行をやめて、何か逡巡した様子を見せたが、やがて諦めたように窓際のテーブルに腰かけた。みれいは脱いだばかりのエプロンをつけて、テーブルに向かう。

「いらっしゃいませですわ。冴木さえき先輩」

「ですわ、は余計だろう」

 冴木は、みれいと同じミステリー研究会に所属する先輩である。一緒に開かずの金庫の暗号を解いたり、小さなおまじないを見つけたり、実はアパートの部屋が隣同士だったりと、奇妙な縁で結ばれている。

「ご注文は何になさいますの?」

「ホットココア」

「かしこまりましたわ」

「いつから、バイトしていたんだ?」

 冴木がみれいの働く姿を物珍しそうに眺めながら訊く。

「四月の中頃ですわね。あ、冴木先輩もしかして、お会計は一万円札ですの?」

「え?」

 冴木は訝しみながら手に持っていた紙袋から一冊の本を取り出す。

「本屋の帰りだからね、万札はないよ」

「なぁんだ……」

 みれいが唇を尖らせて言うと、冴木は眉を顰めた。

「なんだとは、なんだ……」

 みれいはオーダーをとってカウンタ―に戻る。次のシフトの子に引き継いで、自分もホットコーヒーを頼むと、急いで着替えて客席へと向かった。

 客席では、冴木が本を片手にちびちびとホットココアを啜っていた。熱いのが苦手なのか、全くといっていいほどココアの残量は減っていなかった。ここまで急いで着替えてくる必要はなかったかもしれない。

 みれいは、頼んでいたホットコーヒーを自分で受け取りに行き、冴木の正面に座った。冴木はみれいを一瞥しただけで、再び本に目線を落とす。何を読んでいるのか気になったが、ブックカバーが掛けられていて分からなかった。

「冴木先輩、以前部室でお話した万札おじさんのこと覚えていらっしゃいます?」

「うん?」

 冴木は目線はそのままに答える。

「なんか、言っていたかもね」

 漠然とした答えにみれいは不安を覚えたので、再び万札おじさんの話をすることにした。冴木は諦めたように本を閉じてくれたが、まだホットココアには手をつけない。もう少し冷めるまで待つようだった。それにしても、かれこれもう三回も万札おじさんの話をしている。みれいは自分でも驚くほど理路整然と説明が出来た。

「ふぅん」

 説明を一通り聞き終えた冴木は、興味なさげにホットココアを啜った。

「ぜひ、ご感想を」

「乾かせばいいわけ?」

「冴木先輩、実はここのレアチーズタルトは絶品なんですわよ」

「……もので釣るとは、姑息な手段を覚えたね」

 冴木が甘いものに目がないのは、みれいにとっては太陽が東から昇るぐらい常識的なことだった。

「それほどでもありませんわ」

「褒めてないけど……」

 冴木はホットココアに視線を向けたまま溜め息を零すと、意を決したように話し出した。

「まずね、あくまで有栖川君の主観を通した一部を垣間見て意見するというだけで、今から言うことが必ずしも事実とは限らない」

「ええ、私は事実ではなくとも、冴木先輩がその仮説に辿り着くまでのプロセス――思考を知りたいんですの」

「あ、そう……」

 冴木はホットココアを一口飲む。みれいもホットコーヒーに口をつけた。

「とにかく、だ。有栖川君のいう万札おじさんは単一ではなく複数だろう。そして、今回来たのが一番新しい万札おじさんで、オカマ店長の言っていた『年上の眼鏡の子』だね」

「え、古いとか新しいとかあるんですの? 旧札とか……?」

 みれいは先ほどの一万円札が旧札だったか新札だったか思い出そうとしたが、あの時は衝撃が強すぎて全くといいほど思い出せなかった。

「いや、お札の種類とかではなくて人物がだよ」

 気付けば冴木はみれいの方に視線を向けていた。

「万札おじさんは、一夜っきりで変わるんだよ。容姿や釣りはいらないという台詞が一貫しないのも頷ける。オカマ店長の見た目に惑わされた人物が、オカマ店長の経営するカフェで一万円札で会計をして釣りを貰わない。これが合図になっていて、万札おじさんはこのカフェの怪談を一万円で買うわけだ」

 怪談――女性にしか見えないオカマ店長にホテルに連れ込まれて行方知らずになるという怪談。みれいはその先を想像して、勝手に身震いした。

「アフロのチーフの人は、レジ差に関して疑問を抱いていたようだけれど、オカマ店長は順風満帆だと言ったんだろう」

「で、でもですよ、冴木先輩」

 みれいは冴木を真正面から見つめる。いつみても、あまり生気を感じない瞳だった。

「なら、陽子先輩は知っていたということですわよね? でもその陽子先輩が、今日は来ないって仰ったんですわ」

「陽子先輩は、何て言ったんだったかな?」

 冴木の言い方は、答えを知っていて、そこに誘導しているように思えた。

「ええと――『今日は来ないと思うよ。一昨日、散々だったから』と仰って……あ!」

 みれいは合点がいって思わず立ち上がった。レジカウンターにいたバイトの子がびっくりしてこちらを見ているのが視界に入った。

 冴木は気にも留めずに続ける。

「そう、その陽子先輩は一昨日散々だったからと言ったんだ。それに対してオカマ店長は『年上の眼鏡の子』と言った。一昨日までは傷心だったオカマ店長を陽子先輩は知っていたけれど、一日で新たな万札おじさんを見つけていたのさ。それを昨日は定休日で知り得なかった陽子先輩は今日は来ないだろうと言ったんだよ」

 冴木はもう十分だろうと言った様子で、ホットココアを堪能している。みれいもそれ以上は聞かずに、少し冷めてしまったホットコーヒーを飲み干した。

 恐らく、オカマ店長の男遊びは怪談になる程だったので、万札おじさんは昔から存在はしていたのだろう。だが、長年勤めて色々知っている陽子先輩が二ヶ月もタイに行っていたため顕著になった。あるいは、色恋沙汰に夢中になると仕事が雑になる店長だ、とチーフも言っていたのでそれらが相まって万札おじさんは多く生まれたのかもしれない。

 彼らもある意味では、レールから脱線していったのだろうか。

「冴木先輩、帰りましょうか。陽子先輩には悪いですけれど、ここのバイトも今日で最後ですわ」

「最初に言ったけれど」

 冴木は本を紙袋に戻す。

「僕の言っていることが正しいとは限らないよ」

「ええ、分かっていますわ」

 みれいは冴木と同時に会計を済ませる。お互いが自分の分だけを支払った。

 店の外に出ると、初夏らしく澄み渡った青空が広がっていた。これからどんどんと暖かくなっていくだろう。

 冴木とは住まいが隣同士なので、必然的に同じ方角に歩くことになる。隣に並んで歩こうと思ったが冴木は歩く速度が速くて、みれいは少し小走りになった。

「ところで、覚えているよね」

 冴木がぽつりと言う。

「何をですの?」

 みれいは分かっていたが、知らないふりをして訊いてみた。冴木もそれを察したのか、少しむっとしながらも答える。

「レアチーズタルトだよ」

「お給料が入ったらですわ」

 冴木の返事はなかったが、みれいはこれでまた冴木と会う口実ができた、と足取り軽く前に出る。木立の狭間から降り注ぐ木漏れ日が、きらきらと踊っていた。

 

 

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