万札おじさんは一夜っきりⅡ
アルバイトが始まってもなお、みれいは万札おじさんの噂のことばかり考えていた。普段よりも若干動きが鈍かったかもしれないが、接客だけはなんとか笑顔を振りまいておこなっている。
万札おじさんの噂は、サークルにいる他のバイトをしている人たちのなかにも広がっていた。とはいえ、広めたのはほとんどみれいだったが、それぐらいここのバイト仲間の中では周知のものとなっている。今となっては、誰が言い始めたのか万札おじさんに会うと金運が上がるという迷信すら生まれている。
しかし、万札おじさんの行動に関しては万札で会計を行うという一貫性を
四十代ぐらいからがおじさんだろう、と考える人もいれば、三十代でもおじさんだと言う人もいるだろう。それは、捉える側の年齢にも左右されると思うが、他にもおじさんというと、父親や母親の兄弟を叔父さんとも呼ぶ。それは除外するとしても、世間一般的には、おじさんとは何歳からを指すのか、みれいには分からなかった。
何となく、厨房のほうへ視線を向ける。厨房には二人のバイトが足りないものを補充したり、皿を洗っていたりと忙しなく動いているものの、オカマ店長の姿は見えなかった。営業時間がそこまで長くなく、常に入り浸っているという店長のことだから、休憩で外で煙草でも吸っているのかもしれない。
先ほど聞いた、羽振りのいいおっさんは店長が喜ぶ客、といったチーフの言葉を思い出す。
(なんだか、万札を手に持って微笑を浮かべる姿が容易に想像できますわ……)
オカマ店長は美魔女のような妖艶さを持っているものの、どこか黒さを感じる笑みも内包している。完全に女と思い込んだ男性が、この笑みに魅了されてホテルに誘い込まれ、股間の店長を目撃したが最期、行方知らずになる……というのも、バイト仲間の中では都市伝説――いや、怪談として定着している。
そうこうしているうちに、厨房にいた一人が「お先に失礼しまーす」と事務所へ戻っていった。忙しい時間帯はとうに過ぎたので、今お店にはみれいを含め二人のバイトと、チーフ、どこかにいる店長ぐらいしかいない。
客がいないのでのんびり拭き掃除をしていると、ドアベルが鳴る。みれいはその懐かしい姿に驚愕して、挨拶した。
「
「あら、みぃちゃん! 久しぶりね」
陽子先輩はフリーのカメラマンで、片手間にバイトをしていると言っていた。みれいがバイトを始めて右も左も分からないときに指導員として親身に業務を教えてくれたのが陽子先輩である。
「バイトでお会いするのは、二ヶ月ぶりぐらいですわよね。海外はいかがでした?」
「三日ぐらい前に日本に戻ってきたばかりでねー。いやー暑かったよ、とにかく暑い」
陽子先輩は以前とは違う小麦色の肌になっており、ショートの髪型も相まってかすごく活発的な印象を受ける。
「タイでしたわよね? 四月でも暑いんですの?」
「暑いよぉ」
陽子先輩は手をうちわのように振った。
「あまりに暑いから、街では水をかけあう祭りがあるぐらい。ソンクラーンってきいたことない?」
「いえ、そんなお祭りがあるんですの?」
みれいも祭りは好きだった。陽子先輩は白い歯を見せて笑う。
「ソンクラーンってのはね、サンスクリット語の移動、経路って意味で、天文学的にいうと……太陽の軌道が十二ヶ月の周期を終えて新たに白羊宮に入る時期を祝う伝統行事ね」
白羊宮、つまりおひつじ座だ、とみれいは瞬時に理解した。今となっては懐かしいとある暗号に使われた文面である。
「そんなお祭りがあるなんて知りませんでしたわ。でもお水をかけられたりしてカメラは壊れたりしないんですの?」
「もちろん、防水カメラ持っていったわよ」
陽子先輩は指をカメラのように構えてシャッターを切る動作をした。いつもそうだが、身振り手振り、ジェスチャーを豊富に用いるのが陽子先輩の話し方だった。彼女はファインダーから顔を上げたかと思うと、周りをきょろきょろと伺った。
「ところで、オカマ店長いない? 昨日は定休日だったから、シフトの件で来たんだけどさ。みんなに食べてもらおうって思ってお土産も持ってきたのよ」
「あ、さっきまでいらっしゃったんですけれど……」
陽子先輩はみれいの指導係であると同時に、バイト内の人間関係や店の経営状況、在庫の管理に至るまで様々なことを熟知しており、いつでも店長になれるわ、とオカマ店長が断言するほどだ。今日は二ヶ月の休暇明けで、次からのシフトを決めにきたのだろう。
「裏で煙草でも吸ってるのか、それとも男と連絡でもしてるのかどっちかね」
陽子先輩は鋭い視線を裏口へ向ける。店長の行動も、彼女にとっては手に取るようにわかるに違いない。
「もう三十分もしたら、あがりなんですけれど、よろしければお茶でもいたしません?」
「あ、ごめんね。みぃちゃん。このあと雑誌のインタビューがあってね。こないだ海外で作られたばかりの豪華客船知ってる? その写真の写りがいいからって掲載されることになってね。色々と話があるみたい」
「わぁ、凄いですわ! ぜひ今度、その雑誌を教えてくださいます?」
みれいは言いながら、雑誌っていくらぐらいするんだろうと想像していた。
「もちろんよ、楽しみにしててね。それじゃ、裏口のほうに行って店長探してくるよ」
「はい、お疲れ様ですわ」
みれいは意識こそしていなかったが、ぽつりと言葉が漏れた。
「……万札おじさんが来なければいいですけれど」
最後の方はほとんど消え入りそうな声で言ったつもりだったが、陽子先輩は後輩の不安を聞き逃さなかった。
「万札おじさん?」
「え、ええ。実は……」
タイに撮影に行っていた陽子先輩が噂を知らないのも無理はない。みれいはかいつまんで、万札おじさんの噂を説明した。金運アップのご利益は欲しいが、実際きたらきたで何だか怖いということも。
「ああ、なるほどね……」
話を聞いた陽子先輩はくすっと笑うと、器用にウインクして意味ありげに言った。
「今日は来ないと思うよ。一昨日、散々だったから」
「え? それってどういう――」
みれいの質問は、軽快なリズムを刻む着信音で遮られた。
「あ、ごめん仕事の電話だ。みぃちゃん、また今度ね。お疲れ様!」
みれいが真意を問う前に、スマートフォンを耳に当てながら陽子先輩は素早く
華奢な後ろ姿を見送りながら、陽子先輩の残した「今日は来ないと思うよ」という言葉の真意を考える。だが、いつまで経っても、みれいはただ頭を傾げることしかできなかった。
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