彼女

その夜、僕は夢中で自転車を漕いでいた。冷たい風が頬を切るように吹き抜けるが、それを気にしている余裕などなかった。昔の恋人からの突然の電話――それは、僕の心の奥底に眠っていた炎を再び燃え上がらせた。


彼女は高校時代の恋人だった。僕たちはお互いのすべてを知っているかのように感じていたし、それが永遠に続くと信じていた。けれど、彼女が東京の大学に進学してから、距離は次第に心の間にも広がり、やがて僕たちは自然に離れてしまった。それでも僕は、彼女のことを忘れたことは一度もなかった。


そんな彼女から、半年ぶりに突然電話がかかってきた。


「元気にしてる?」


彼女の声は、変わらず優しく、懐かしい響きだった。しかし、その声の中にはどこか不安げな響きが混じっていた。僕は驚きながらも嬉しさを抑えきれなかったが、彼女の様子が心配になった。


「どうした?何かあったの?」


「ううん……なんだか、最近周りの様子が変なの。知らない人が多くて、街の雰囲気

も違う感じがして……怖いんだ」


彼女の声は震えていた。僕は胸が締め付けられるような思いを感じた。彼女がこんなに怯えているのは初めてだった。


「大丈夫だよ。今どこにいるの?」


「今戻って来て、昔、二人でよく行った公園にいるの……でも、なんだかここも変な感じがするの。お願い、来てくれない?」


「わかった、すぐに行くから待ってて」


僕は迷うことなく彼女に会うことを決めた。約束の場所は、昔二人でよく行った郊外の公園だった。夜の九時。普通なら人の姿も少ない時間だが、僕にとっては彼女との再会が何よりも重要だった。


公園に到着した僕は、周囲を見回した。夜の闇が静かに広がり、街灯がわずかな光を投げかけているだけだ。彼女の姿は見当たらなかった。僕は少し不安になりながら、彼女に電話をかけた。


「着いたけど、どこにいる?」


電話越しの彼女の声はすぐに返ってきた。


「私も、もう着いてるよ。公園の中央のベンチにいるんだ。見える?」


僕は周囲を見渡し、中央のベンチに目を向けた。そこには誰かがいるようには見えなかった。


「今、そっちに行く」


僕は自転車を降り、ゆっくりと中央のベンチに向かって歩き出した。しかし、何かがおかしいと感じ始めた。


「そこにいるんだよね?」


僕は再び問いかけた。電話越しの彼女の声は変わらず穏やかだったが、どこか不安げでもあった。


「いるよ。ずっと待ってたんだ、あなたが来るのを。でも……なんだか、ここも変なの。周りが少しずつ違う気がする」


その言葉に、僕の胸は一瞬締めつけられた。しかし同時に、冷たい風が背筋を撫でていくような不気味さが僕を包み込んだ。何かが違う、そう感じたのだ。


僕は立ち止まり、じっとベンチを見つめた。目の前に広がる光景が現実味を失っていくような感覚に襲われた。彼女の声は確かにそこにあり、彼女は僕を待っていると言っている。けれど、その姿は、そこにはない。


「本当に、いるの?」


僕の声はかすれ、冷たい夜空に溶けていった。電話の向こうの彼女は静かに笑った。


「いるよ」


その言葉に、僕は背筋が凍るような感覚を覚えた。彼女の声は確かに優しく、愛おしいものであったが、どこか別の世界から響いてくるようにも感じられた。


僕たちは散策が大好きで、よく知らない街を歩くのが趣味だった。彼女が東京に行ってからも、散歩中に面白い発見があったとよく話してくれていた。しかし、ある日、彼女は散歩の途中で迷ってしまったのだという。


「なんだか、周りの人たちがいつもと違うの。言葉も聞き慣れないし、街の風景もどこかおかしいい」


彼女はそう言って、声を震わせた。「怖くなって、必死で元の道を探して戻ってきたんだ。でも、戻ってきたと思ったら、なぜかずっと違和感が消えないの」


僕は彼女の話を聞いて、ただならぬ事態を感じた。まるで彼女が別の世界から帰ってきたかのようだった。しかし、僕たちはそれを確かめる手段も持っていなかったし、彼女自身もそれを受け入れたくない様子だった。


「大丈夫だよ。僕がそばにいるから」


そう言いながらも、僕の中には拭えない不安が残っていた。彼女が本当にここにいるのか、彼女の言う「戻ってきた場所」が僕たちの知る世界と同じなのか、その答えは闇の中にあった。


僕はもう一度ベンチに目を向けたが、そこには何もなかった。ただの空っぽのベンチが、街灯の光の下で静かに佇んでいるだけだった。電話の向こうからは、ただ静かな風の音だけが聞こえてきた。


その瞬間、僕は悟ったのかもしれない。彼女はもう、僕の手の届かない場所にいるのだと。僕が追い求めていたのは、過去の影であり、彼女自身ではなかったのかもしれない。


電話をそっと切り、僕はベンチの前に立ち尽くした。夜の冷たい風が僕の周りを吹き抜け、僕はふと、一人でいることの現実感を感じた。彼女の言葉は本物だったのだろうか。僕は答えを見つけることはできなかった。ただ、そこには確かな寂しさと、消えない温もりだけが残っていた。

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